銅鐸の統合
銅鐸の大きな分類を前述していますが、細かく見ると一つの形式の中にもいろいろな種類があります。
銅鐸祭祀が盛んになるにつれて、その種類が増え細分化されます。しかし、時代の経過とともに銅鐸の形式が統合されていきます。
この銅鐸形式の統合は、地域勢力の統合を意味しており、クニがまとまっていく過程を示していると考えられています。
銅鐸祭祀が盛んになるにつれて、その種類が増え細分化されます。しかし、時代の経過とともに銅鐸の形式が統合されていきます。
この銅鐸形式の統合は、地域勢力の統合を意味しており、クニがまとまっていく過程を示していると考えられています。
弥生中期の青銅器祭祀
弥生時代中期後半には、古代中国の歴史書『漢書』地理志に、「この頃、倭国、分かれて百余国・・」と書かれているように、日本列島各地には小さなクニが多く成立していました。
当時の倭国のクニグニ はそれぞれの地域で独自の祭りを行っていたようですが、朝鮮半島からの影響もあり、青銅器で祭祀の道具を作り農耕にかかわるまつりごとを行っていました。そのような青銅祭器の分布を、このホームページの「知っておきたい基礎知識/銅鐸の基礎知識」に示しているので参照してください。
祭祀を大きく分けてみると、武器型祭器と銅鐸祭器に2分されます。
北九州から中国、四国にかけては武器型の祭器が用いられ、中国、四国、近畿、東海では銅鐸が祭器として使われていました。銅鐸も地域によって型式が異なり、10系統以上の形式に分かれでいました。(北九州でも数は少ないものの、銅鐸の鋳型や銅鐸自体も見つかっており、銅鐸祭祀が行われていたようです。)
この時期の銅鐸祭祀は、銅鐸を鳴らして音を聞く「聞く銅鐸」の祭祀です。弥生後期の「見る銅鐸」に比べると、銅鐸は小ぶりで、いろいろな種類のものが造られていました。
弥生後期の祭祀のシンボル
弥生時代後期は、『魏志倭人伝』に記されているように、倭国に属する30余の国が分立していた時期です。しかし、中期末の大きな社会変動により、武器型祭祀や銅鐸祭祀を続けている地域と、青銅器祭祀を止めて、墳墓や特殊器台をシンボルとしてまとまっていく地方が現れます。
(「知っておきたい基礎知識/銅鐸の基礎知識」に示しているので参照) 銅鐸祭祀を続ける四国・近畿・東海も、「聞く銅鐸」から大きくて華麗な「見る銅鐸」へと祭祀のやり方が変わります。その過程で、10系列以上あった銅鐸も5系列の「見る銅鐸」に統合集約され、また「見る銅鐸」も「近畿式銅鐸」と「三遠式銅鐸」へと集約されていきます。
銅鐸の統合の過程
次に、銅鐸の統合の過程を、もう少し詳しく見てみます。
奈良文化財研究所の難波洋三さんがまとめられた「銅鐸群の変遷」は、瀬戸内、近畿、東海に広がる銅鐸祭祀圏の銅鐸の様式の変遷を示すものですが、銅鐸製作工人をかかえる首長の動向を示すものであり、それは政治統合の流れを示すものでもあると考えられます。
銅鐸の変遷の解釈についていはいろいろな見方がありますが、以下、難波さんの説に依っています。
聞く銅鐸の第1次統合
弥生時代中期の「聞く銅鐸」の祭祀は、弥生中期から後期に移る社会混乱期に大半が埋納されて終わり、一時期中断した後に弥生時代後期に「見る銅鐸」として再開されます。この時、10系統以上の種類があった「聞く銅鐸」は整理され、5つの系統の銅鐸がそれまでの形式や装飾を引き継いで「見る銅鐸」として、より大型化、装飾化が進みます。これら5系列の銅鐸群は、地域政権の意向を受けた銅鐸製作工人が、その地で作っていたと考えられます。銅鐸のサイズや形式、文様は工人が決めるものではなく、政権の首長が自分たちのシンボルあるいはブランドとして決めたと考えて良いでしょう。
見る銅鐸 近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の統合(第2次統合)
さらにこれらの形式が統合され近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の2つの系統になっていきます。 上図に示したように、近畿式銅鐸に統合されるとき、3系統の銅鐸の影響を受けています。矢印の太さが影響の度合いを示しています。すなわち、近畿式銅鐸は大福式銅鐸をベースとして、山陰・中国地方で作られた迷路派流水紋銅鐸の影響をかなり受けている、また、瀬戸内東部の横帯分割型銅鐸の影響も少し受けている・・・と、読み取れます。また、三遠式銅鐸は2系統の影響を受けており、東海派銅鐸をベースとして、瀬戸内東部の横帯分割型銅鐸の様式をとり込んでいます。 近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の2系統に統合された後、それぞれが大型化、装飾の華麗化が進みます。この様子を、野洲市教育委員会の進藤武さんが図解されているので引用します。近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の変遷統合
図から年と共に大型化し、装飾が豊かになっていくのが判ります。このように統合化された銅鐸が、銅鐸圏各地より出土しています。
大型化し華麗な装飾・デザインになっていくのは、祭祀を壮麗化して権威を強調するためであり、現在の高層建築や高層タワーが「世界一」を目指す動向に似ていないでしょうか?
銅鐸分布図では、銅鐸圏西部が近畿式銅鐸を採用し、東部が三遠式を採用するという構図になっています。
そうして最後に、近畿式銅鐸に統合されていきますが、その時に三遠式銅鐸のデザインを一部で取り入れています。統一された近畿式銅鐸は、東海も含む銅鐸圏で広く発見されており、祭祀的にもオール銅鐸圏としてまとまったようです。
このような銅鐸の統合は、大切な祭器の統合、言ってみれば政権のシンボルの統合であり、政治的な連携が進み、連合国家が形成された結果だと解釈されます。すなわち、倭国の統合への
このように、銅鐸の形式の変遷をとおして、政治統合の過程を読み解くことができます。
銅鐸の変遷、出土状況から見えてくる製作地域
青銅祭器の分布から地域政権の誕生と範囲が見えてきて、さらに銅鐸を詳しく調べることにより、小さな地域政権が政治的統合を行って大きな地域政権になる様子がみえました。
では、その中核となる地域はどこなのかを絞り込むために、銅鐸の変遷、銅鐸や鋳型の出土状況から推測していきます。
地域政権の伸張は「発見された銅鐸の数量と分布」から考えていますが、注意を要するのは、銅鐸は集落から離れた所にまとめて埋納されるのが多いことです。青銅祭器は権威の象徴であり、その政権のシンボルであるとすると、銅鐸が出土した場所よりも、誰が製作主体であったのかということが重要になります。
ここでも、先述の難波さんの見方に準拠し、銅鐸の鋳型が見つかっているのかなどを含めて、製作地域を考えてみます。
検討の経緯は、当ホームページの上位ホームページ「野洲川下流域の弥生遺跡」/「銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権(2)」(http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/362oumi-y.html)に記載されているので参照してください。
銅鐸の出土状況を基に推定した銅鐸の製作主体を赤字で書いてあります。
次に、当時の拠点集落の場所と鋳型の出土を基に絞り込んだ銅鐸製作主体を中央と右側に書いてあります。
当ホームページで、銅鐸の鋳造関係遺物の出土状況や伊勢遺跡のことを述べましたが、最終的に銅鐸祭祀圏を取りまとめたのは近江南部ということになりました。
魏志倭人伝に30のクニがあり、もめごともあったようです。近江に巨大な力をもったクニがあって他の国を支配した、というより、銅鐸祭祀を通じて緩やかな連邦制をまとめる中核が近江にあったということでしょう。