銅鐸の埋納
銅鐸は、その500年程度の使用期間で、土中から発見されることが多く、また一定の姿勢で埋められていることから一定のルールに沿って「埋納された」と考えられています。破壊や姿勢の例外もあることから、研究者の間でも、いろいろな見解が出されています。
銅鐸の一斉埋納
銅鐸が発見されるのはほとんどが人里離れた辺鄙な所で・・・と言われていたが、最近は集落でも発見されることが増えてきたようです。集落で発見される銅鐸がまだ少ない頃は、銅鐸が埋められた時期は大きく2段階に分けて考えられていました。
第1段階は、弥生時代中期末から後期初頭、第2段階は弥生時代後期末です。第2段階は時代
第1段階の埋納と第2段階の埋納には、年代にして150〜200年の差があります。
多量埋納の例
第1段階: | 一括多量埋納 | 加茂岩倉遺跡、荒神谷遺跡、桜ケ丘遺跡 銅矛、銅戈などと一緒に |
第2段階: | 一括多量埋納 近接埋納 |
大岩山のみ 銅鐸だけを埋納
銅鐸の谷(遠江)、 川筋に沿って(紀伊) 銅鐸のみ |
第2段階は見る銅鐸の埋納で、一括多量埋納は大岩山だけで、紀州や遠江などでは川筋に沿った複数の遺跡で単体または複数で埋納されています。
第2段階のもう一つの特徴は、三河・遠江の場合ですが、三遠式は三遠式だけで、近畿式は近畿式だけで埋納されています。大岩山は例外で三遠式と近畿式が一緒に埋納されています。丹後の遺跡で1か所三遠式と近畿式が各1個ずつ埋納されているケースがあります。ちなみに紀州は全て近畿式です。
大岩山では、見る銅鐸と聞く銅鐸が一緒に埋納されているのも特徴ですが、聞く銅鐸と見る銅鐸の境はもうちょっと単純に考えたらどうかという気がします。
大岩山の「聞く銅鐸(W式-1)」は、弥生時代中期末の社会混乱による銅鐸祭祀の一時中断があったのち、野洲川下流域ではW式-1を「見る祭祀」として復活したのではないかと考えています。
要は、使う側のやり方が、「鳴らすのか」、「見るのか」どうかという視点です。
埋納の時期
大岩山銅鐸は同じ丘陵の斜面から出土しているが、数10mはなれた個所からの出土となっており、第2段階の埋納ではあるものの、細かく見ると3回にわたって埋められたと考えられます。
第1段階埋納の加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡も、若干の時期のずれがあるという見方があります。
大まかには、この2段階説が当てはまると考えますが、近年、淡路島で見つかった松帆銅鐸は第1段階の前段階で埋められたのではないか、という見方も出ています。ただし、松帆銅鐸は弥生時代に埋納された場所から、砂利と共に採取され(気が付かないまま)それを砂置場迄運ばれた後に発見されているので、埋納に関する情報は少なく、無理があるような気がします。
いやいや一括埋納ではなく、埋めては戻しまた埋めていた、という説もあります。
第1段階の埋納と第2段階の埋納の時期が約150年の差があり、一方で、埋納の仕方が鰭を上にして横倒しで埋めるというやり方が、150年の年差と地域差がありながら統一され、踏襲されるのは不思議だ、その間にしばしば埋納していたから、埋納のやり方が伝えられるのだ、という説です。
また違う考え方として、銅鐸は光り輝くから人々を魅了し魔力を感じるのであって、わざわざ土に埋めるのは不自然だという研究者もいます。
古い銅鐸の紋様がくっきりせず摩耗していることを考えると、銅鐸の輝きを保つために磨いていたことも考えらえます。
次の節で銅鐸の破壊について述べますが、銅鐸の最期については不思議なことが多いです。
銅鐸の破壊
第2段階に相当する時期に破壊された銅鐸が集落から出土する例が増えてきています。
破壊される銅鐸はほとんどが近畿式銅鐸で、三遠式銅鐸の例はほとんどありません。銅鐸の破壊と言っても、飾耳を切り取る程度から、粉々に破片にしてしまうようなものまであります。
飾耳の切取から粉々まで含めると、銅鐸の破壊は近畿式銅鐸圏全域で見られますが、破片化するのは地域性があるようです。近江では、切り取られた飾耳1個が集落跡から出土しています。遠江でも切り取られた飾耳が数個見つかっています。
近江も遠江も銅鐸祭祀の終了に際し、銅鐸を埋納した地域では、飾耳を切り取っていても粉々に破砕するようなことはなかったようです。
第2段階の埋納が見られない大和で破砕された銅鐸が出土するので、銅鐸祭祀の終焉の仕方に、感情的な違いがあったようです。