出土数から見た位置付
銅鐸は中国・四国・近畿・東海地方から多く見つかっており、一部九州でも銅鐸が出ています。
その中で、近江で出土した銅鐸はどれくらいなのか、近江の特徴はなになのかを見てみます。
その中で、近江で出土した銅鐸はどれくらいなのか、近江の特徴はなになのかを見てみます。
出土総数
島根県立埋蔵文化財センターがまとめた「銅鐸出土地名表」を元データとし、それを集約したデータが「邪馬台国とは何だろう?」さんのWebサイトに「銅鐸分布考 型式別分布」(2004/12/27)として掲載されており、そのデータを利用しています。
ちなみに、この時点での銅鐸の総数は、破片、型式不明、出土地不明も含めて、総数577個です。
このうち、出土地が判明+型式が判明している銅鐸の個数は408個です。
データは旧国別にまとめられており、地勢的に境界が引かれた旧国別のデータが弥生時代のクニの範囲に近いと考えられます。出土数の多い国を抜粋して、多い順に示します。
旧国名 | 合計 (型式不明を含む) |
出雲 | 51 |
阿波 | 42 |
紀伊 | 42 |
近江 | 40 |
摂津 | 33 |
遠江 | 31 |
三河 | 29 |
総数 | 507 |
出典:「銅鐸分布考 型式別分布」(2004/12/27)[Web「邪馬台国とは何だろう?」]
加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡を抱える出雲がトップとなり、それに続いて、阿波、紀伊、近江となっています。
銅鐸生産の本拠地と考えられている畿内の国々の銅鐸数は摂津の33個を除くと、他の国々は20個前後と少なく、弥生文化からちょっと離れている周辺の国、阿波、紀伊などに多くあるのが意外です。
近江での出土数はトップ5の一つですが、二番手の出土数です。
ウキペディアには、都道府県別の銅鐸出土数(文化庁が2001年末時点で集計)が書かれています。
兵庫県 56点、 島根県 54点、 徳島県 42点、 滋賀県 41点、 和歌山県 41点
兵庫県は、摂津、播磨、但馬の国の集合となるため、都道府県別の集計ではトップです。
一括出土数
同一地点から銅鐸が見つかる、一括出土数を見てみると、島根の加茂岩倉遺跡がダントツの39個。
大岩山はそれに次ぐ24個です。そのほか、桜ケ丘や荒神谷で一括出土しており、つい最近では淡路島の松帆銅鐸が7個出土してニュースとなりました。
古いところでは、滋賀県守山市の新庄で4個の銅鐸が出ていますが、江戸時代のことであり詳細は分かっていません。
遺跡名 | 発見年 | 出土数と型式 | その他 |
島根 加茂岩倉 | 1996 | 39 U式、V式 | |
滋賀 大岩山 | 1981、1962 | 24 W式のみ | |
兵庫 桜ヶ丘 | 1964 | 14 U式、V式 | 銅戈 7 |
兵庫 淡路島 | 2015 | 7 1式、U式 | |
島根 荒神谷 | 33 | 6 1式、U式 | 銅剣 358 銅戈 16 |
表を見て分かるのは、古い銅鐸が一括埋納されているケースが多く、新段階の銅鐸の一括埋納は大岩山だけです。紀伊や遠江で新しい銅鐸が沢山出土していますが、1個〜2個を埋納する遺跡が数か所あるものの、一括埋納という形ではないようです。
近江の特徴は、一括埋納の数は二番手だけど、大岩山だけに新しい銅鐸が埋納されていることです。
型式別出土数
聞く銅鐸と見る銅鐸−主要な国別の推移
前項では、出土した総数を見ていきましたが、聞く銅鐸と見る銅鐸別に数量の推移を見ていくと「銅鐸のマツリ」の変遷が見えてきます。聞く銅鐸と見る銅鐸の境について、現在の主流となる考え方は、新段階W式-1とW式-2の間にあると言われています。総数のところで比較した出土数の多い国で型式別の数を示します。
旧国名 | 1式〜3式 | W式-1 | W式-2〜5 |
出雲 | 50 | 0 | 0 |
阿波 | 26 | 1 | 1 |
紀伊 | 18 | 0 | 17 |
近江 | 6 | 5 | 20 |
摂津 | 26 | 0 | 7 |
遠江 | 1 | 0 | 27 |
三河 | 3 | 2 | 10 |
総数 | 260 | 15 | 124 |
[型式不明は含まず、この表の合計は出土総数のデータと合わない。]
出典:「銅鐸分布考 型式別分布」(2004/12/27)[Web「邪馬台国とは何だろう?」]
この表から、それぞれのクニでの祭祀の在り方がよく表れています。
@「聞く銅鐸のマツリ」で終わってしまう出雲
A「聞く銅鐸のマツリ」と「見る銅鐸のマツリ」を継続して行う紀伊や近江
B「聞く銅鐸のマツリ」はほとんどなく「見る銅鐸のマツリ」を開始する遠江
C「聞く銅鐸のマツリ」は盛んだったけど、「見る銅鐸のマツリ」は低調な阿波や摂津
銅鐸の多い国のみ表にしましたが、それ以外の国も同じように分類できます。
A「聞く銅鐸のマツリ」と「見る銅鐸のマツリ」を継続して行う紀伊や近江
B「聞く銅鐸のマツリ」はほとんどなく「見る銅鐸のマツリ」を開始する遠江
C「聞く銅鐸のマツリ」は盛んだったけど、「見る銅鐸のマツリ」は低調な阿波や摂津
近江の特徴は、聞く銅鐸から見る銅鐸まで、そろって出土していることです。
新段階の見る銅鐸は、遠江に次ぐ二番手で、紀伊を入れてトップ3を形成しています。
聞く銅鐸から見る銅鐸への変革期に当たる新段階W式−1とW式−2に関しては、他所に比べ近江で3倍くらい多く見つかっています(上の表ではW式−2のデータは出てないが、4個)。
新段階の見る銅鐸は、遠江に次ぐ二番手で、紀伊を入れてトップ3を形成しています。
聞く銅鐸から見る銅鐸への変革期に当たる新段階W式−1とW式−2に関しては、他所に比べ近江で3倍くらい多く見つかっています(上の表ではW式−2のデータは出てないが、4個)。
銅鐸の変革は、時代的には弥生時代中期末から後期初頭にあたり、大きな社会変革があったとされる時代です。佐原真さんによれば、この大きな変革期の弥生中期末頃から作られたのがW式-1、-2なのです。
銅鐸祭祀は一時的に中断され、大阪大学の福永伸哉さんによれば、それは数10年に及ぶということです。
このことは、上の表の銅鐸の総数から見てもうなずけることです。
府県別出土数の変遷
府県別に出土銅鐸数の図示化したものを示します。出典は、「邪馬台国と大和朝廷を推理する」さんのWeb サイトです。このデータの元となるのは、上で使った「銅鐸分布考 型式別分布」なので、元データは同じものです。
【弥生時代中期前半(T式・U式)の銅鐸】
注:円の半径が個数にほぼ比例(以下の図も同じ) | 初期の「聞く銅鐸」の祭祀は、山陰が突出しており、近畿西部でも多く見られる。 銅鐸の生産地と考えられる畿内で見つかるのは少ない |
【弥生時代中期後半(V式・W式-1)の銅鐸】 | 「聞く銅鐸」の祭祀は、山陰が衰退し、近畿四国東部を中心に分布する |
【弥生時代後期(W式-2〜5)の銅鐸】 | 「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変容し、近畿東部と東海にほぼ限定される(近畿式と三遠式) |
銅鐸のマツリが、西日本 ⇒ 四国東部・近畿 ⇒ 近畿・東海へと移っていく様がよく判ります。
近江の特徴は、「聞く銅鐸のマツリ」は低調だったけど「見る銅鐸のマツリ」を盛んに行うようになったことです。
まとめ
銅鐸の出土数から見た近江の特徴は、
- 聞く銅鐸が西日本から近畿西部に分布する、近江にも存在するが数は少ない
- 聞く銅鐸から見る銅鐸への変革期に当たる、新段階W式−1とW式−2銅鐸が近江で多く見つかっており、銅鐸の変革(サイズだけだはなく、祭祀のやり方の変換も含めて)に近江が強く関わったことが考えられる
(社会の大きな変革期とW式−1とW式−2銅鐸が時代的にどのような前後関係なのか、留意する必要がある。難波洋三さんによれば、W式−1と2は時期的に重複しているとのことで、これも配慮する必要があるが、両方を多く有する近江は指導的な立場であったか?) - 新段階の見る銅鐸の数は多い方であるが、遠江よりは少なく紀伊と同程度である。しかしながら大岩山から一括で24個の銅鐸が出土していることにより、歴史的な注目度が高い。