ヘッダー画像
昭和発見の銅鐸
昭和39年、明治発見の銅鐸が出土した大岩山の、少し離れたところから10個の銅鐸が 見つかりました。合計24個の銅鐸は、当時では日本で最多の銅鐸でした。
発見の経緯

銅鐸の発見

昭和37年新幹線の建設工事が行われており、大岩山から工事用の土砂が採取されていました。
重機で山の斜面を切り崩し、その土砂を一旦平らな所に山積みにして、そこからダンプカーに積み込んで建設現場へ運んでいくのです。
7月20日の夕方、作業員が山積みされた土砂をダンプカーに積み込むため、ショベルカーで土砂をすくっていたところ、吊手を上にした釣り鐘状の金物が埋まっているのを見つけたのです。
その金物を引き抜くと、その下に同じような金物があり、さらにそれを引き抜くとまたその下から同じような金物が出てきました。入れ子で銅鐸が3個見つかったのです。その時は銅鐸とは知る由もありません。
この様子から、銅鐸は埋納された元の位置で埋まっているのが見つかったのではなく、掘り出されて土砂集積場へ移動しているということです。ここまでが、発見の第1幕です。
その後の様子が第2幕です。
その金物3個をダンプカーに載せ坂を下り始めると、途中に同じような金物が転がっていました。周囲には2個金物が転がっていたので、それらも拾い上げ、合計6個の金物を持って帰ったのです。その足で、近江八幡の「寄せ屋(金属くずを扱う店)」へ持っていき、くず鉄(金属破片類の俗称)として売ったのです。
当日は近江八幡警察署の巡検日に当たっており、巡査が寄せ屋に立ち寄って巡視したときに、その金物を見つけ「土中品(発掘されたもの)」は転売禁止ということで、取り置くように指示したそうです。
巡査が家に帰ってその様子を家族に話すと、子供が「教科書に載っている銅鐸と違うか?」ということで、その金物が「銅鐸」と判明したのです。これは大変ということで署長に伝え、夜で県庁は閉じているため、京都大学へ電話をして銅鐸の研究者である梅原末治さんに話が伝わりました。
ここから第3幕が開きます。
翌朝、滋賀県の埋蔵文化財を担当している水野正好さんに、直ぐ現地へ飛ぶように指示があり、京大の梅原さん、滋賀県の水野さんが現地で顔を合わせることになるのです。
近辺を探索する必要があるとして、警察と工事現場の人が土砂採取場を調べ、別の土砂集積場で3個が入れ子になった銅鐸を見つけ、合計9個の銅鐸が発見されました。
この話には第4幕がありまして、もう1個銅鐸が見つかるのです。
銅鐸で話が持ちきりになったのですが、実は工事現場の所長が1か月前に銅鐸を1個、別の場所で見つけていて自宅に置いていたのです。大騒ぎになり、黙っているわけにはいかず、別の警察署に届け出たのです。
結局その銅鐸も大岩山から出た銅鐸ということで、合計10個の銅鐸が発見されたのです。
まだ見つかっていない銅鐸がないか、自衛隊の協力を得て電磁探知機で周辺を調査し、15個の銅鐸の破片を見つけたものの、新しい銅鐸は見つかりませんでした。

発見された銅鐸の扱い

発見された銅鐸を誰が保管するか、国と県の綱引きが始まりました。
明治に発見された銅鐸が散逸し、地元には残されていない、是非滋賀県に・・・と、水野さんが文化庁と交渉を続け、きちんとした保管場所を建てるということを条件に滋賀県に置くことに決まりました。大津市の琵琶湖文化館の隣に銅鐸の保管建物を建設し、そこに銅鐸が保管されました。
関係者の努力により、発見された銅鐸は全て、重要文化財に指定されました。
その後銅鐸は、昭和45年(1970)から開館した安土城祉近くの滋賀県立近江風土記の丘資料館に移されました。
現在は、銅鐸が発見された跡地に昭和63年(1988)に開所した野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館) と平成4年(1992)に開館した滋賀県立安土城考古博物館の2ヶ所で銅鐸の一部が保管され、見学することが出来ます。

埋納状況の復元

銅鐸の埋納状態の復元
銅鐸の埋納状態の復元
[写真提供:滋賀県教育委員会 木戸雅寿氏]
銅鐸の発見時の様子から分かるように、銅鐸が埋納された正確な状態は分かっていません。
作業員の証言から3個の入れ子状態であったこと、翌日の3個も入れ子で見つかっていることから、9個の銅鐸は、すべて3個入れ子であったと想像されます。
水野さんは、銅鐸内部の砂の状況、付着する場所と量から入れ子状態の復元を試み、また、銅鐸の鰭に付着している松の根の走り具合から、9個の銅鐸の埋納状況を復元されました。鰭を上にし、鈕を交互にする並べ方であったと推測されました。
発見された銅鐸

発見された銅鐸の一覧

主要な仕様を表に示します。
流水紋を除き、小さい順に1号鐸、2号鐸・・・9号鐸と呼び、流水紋1個は10号鐸となります。
5号鐸と6号鐸は総高が逆順になっていますが、滋賀県の呼び方に従っています。
記号種別 型式1型式2紋様所蔵・保管総高(cm)重量(kg)
S1W式-1
(突線鈕1)
大福型6区袈裟襷滋賀県45.83.83
S2W式-1
(突線鈕1)
大福型6区袈裟襷滋賀県47.23.75
S3W式-2
(突線鈕2)
三遠式6区袈裟襷滋賀県47.54.77
S4W式-3
(突線鈕3)
近畿式6区袈裟襷滋賀県53.76.36
S5W式-3
(突線鈕3)
近畿式6区袈裟襷滋賀県58.46.43
S6W式-2
(突線鈕2)
近畿式6区袈裟襷滋賀県55.06.16
S7W式-3
(突線鈕3)
近畿式6区袈裟襷滋賀県69.09.75
S8W式-3
(突線鈕3)
三遠式6区袈裟襷滋賀県78.712.8
S9W式-2
(突線鈕2)
三遠式6区袈裟襷滋賀県80.914.3
S10W式-1
(突線鈕1)
 流水紋滋賀県53.46.15
昭和37年大岩山出土銅鐸一覧 
記号:Sは昭和を示す
型式:S3は、W式-3とする資料もあるが、難波洋三氏の分類に従い、W式-2とした。

  ** 銅鐸の写真をクリックすると拡大表示され、データも表示されます

銅鐸整列画像 S9銅鐸 S8銅鐸 S7銅鐸 S6銅鐸 S5銅鐸 S4銅鐸 S3銅鐸 S2銅鐸 S1銅鐸 S10銅鐸
昭和出土の銅鐸(整列)【所蔵・写真:滋賀県立安土城考古博物館】

各銅鐸の所蔵者は、上の表のとおりです。写真撮影者の著作権もあるので注意願います。

銅鐸の欠損・変形

銅鐸の写真をみて気が付くのは、明治発見の銅鐸と比べて銅鐸の一部欠損・変形が目立つことです。
銅鐸の欠損は、明治発見の銅鐸にも見られますがほとんどが飾耳の欠損で、本体の欠損は見られないのです、一方、昭和発見の銅鐸では、裾(銅鐸下部)や鰭の欠損、飾耳の欠落などが多くの銅鐸に見られることです。
明治と昭和の発掘で大きな違いは、明治は発掘を意識して手作業で掘り出したが、昭和は重機を使って土砂採取のため大掛かりな掘削をしていた時に混ざり込んだ、という違いがあります。
S10号銅鐸で見られる本体に大きく食い込んだ破れは、重機による強い力が加わったためと思われます。ショベルカーの爪が食い込んだような破れ具合で変形しながらも割れずに残っています。
S1変形
昭和10号鐸の破損面
昭和銅鐸の欠損
昭和1、3、7号鐸の破損状況
[写真:S10銅鐸 安土城考古博物館、 S1・S3・S7銅鐸 滋賀県教育委員会]
【所蔵:滋賀県立安土城考古博物館】

このような変形ではなく、身や裾の欠損が目立つものとして、S1・S3・S7銅鐸があります。このような大きな欠損だけではなく小さな欠損がある銅鐸も見られます。
青銅は武器にも使われる非常の硬く粘りもある合金です。常温では少々の力を加えてもへこむだけで割れません。
ただ、鈕は薄いので強い力を加えると曲がって折れることがあるようです。
滋賀県教育委員会の細川さんの見解では、重機による変形もあるが、そうとも思えない、埋納時に破壊したかも知れない微妙な壊れ具合もあるそうです。

鈕の飾耳の切落し

上の項で触れましたが、S4、S7銅鐸は鈕の双頭渦紋飾耳はきれいに切落してありしかも切り跡が磨かれています。埋納する前か、使用している段階か、当時の人の意図で切落し、切り跡をきれいに磨いたものです。
銅鐸の飾耳切落し
近畿式銅鐸の鈕の飾耳切落し 
[写真 昭和4号・7号:安土城考古博物館、明治3号:天理大学] 

飾耳の切り落としは、明治発見の銅鐸でも見られます。切落されていない銅鐸もあることから、埋納以前の使用時に何らかの意図で切落したものと考えられます。 これは昭和発見の銅鐸だけではなく、明治のM3、M6銅鐸でも見られます。

鈕・鰭の飾耳の切落し? 復古調?

M14復古調銅鐸
明治14号復古調銅鐸
(写真 M13号 國學院大學、S5号 安土城考古博物館)
明治のM14銅鐸(近畿式銅鐸)は不思議な銅鐸です。
文様や鈕の突線を見ると近畿式W式-3の新型銅鐸ですが、鈕の飾耳だけではなく、鰭についている片方で3個、左右合わせて6個の飾耳がありません。
W式-3にしてはサイズも小さく、鰭の飾耳もないことから、ちょっと見にはW式-1の大福型に見えます。
意図的に古い形の銅鐸を造り、それに新しい紋様を付けたような感じです。
復古調の銅鐸を意図したのでしょうか?




注目すべき点(昭和発見の銅鐸)

昭和発見の銅鐸の一覧を眺めて、注目すべき点を簡単に列挙します。
その意義や解説は「近江の銅鐸の位置付け」のところで述べます。
・形式的には新しいW式(突線鈕式)銅鐸ばかりである。
   W式-1:3個、W式-2:2個、W式-3:5個 の内訳となる。
   明治出土銅鐸と同様、やはり W式-4が無い。
・3個の入れ子状態×3組の状態で埋められていた
・S1、S2:W式の中でも古い型式の大福型銅鐸
・S10:近畿式の要素を備えた古い型式の流水紋銅鐸
   流水紋銅鐸はこれ1個だけで、この銅鐸のみが単独で埋納されていた
・S4、S7:近畿式銅鐸であるが、鈕に双頭渦紋飾耳を欠く(切り取られている)
・S3、S8、S9:三遠式銅鐸であるが、近畿式的な紋様の要素を持つ
・昭和発見の銅鐸は、欠損や変形が目立つ(明治発見の銅鐸は欠損が少ない)

mae top tugi