明治発見の銅鐸
銅鐸がどんなものか、一般の人にはまだよく知られていなかった頃、「唐金古器物」として届けられ、東京の帝室博物館では、それが「銅鐸」と認知されたようです。ただ、博物館でも重要性はそれほど認識されなかったのか、大多数が払い下げられ、散逸してしまいました。
発見の経緯
発見の経緯
明治14年8月20日の午後、地元の子供2人が大岩山へ山遊びに行ったところ、小さな穴の中に青い木の葉のようなものがあったので、掘ってみると金物が見つかったのが最初の発見です。そこは大岩山古墳からさらに小高い山の方へ登ったところで、明治7年に大岩山古墳から古鏡や勾玉・管玉などの玉類が見つかっていた地域です。子供たちは宝さがしに行ったのかもしれません。
さらに掘り進めると唐金古器物3個が入れ子になったものが見つかったのです。
竹でさらに掘ると同じような金物が土中に数個見つかったがそのままにして、3個を持ち帰り戸長役場へ届けたそうです。
その話が伝わり、翌朝大人たちが、唐金古器物が見つかった場所をさらに掘り進め、同じような金物が横に並んで見つかったようです。合計11個を掘り出し戸長役場へ届けました。
8月22日には、草津警察署へ届けられました。
[出典:「大岩山出土銅鐸図録」銅鐸博物館] |
左の絵は、日本画家の安芸早穂子さんが銅鐸発見の様子を想像して描かれた絵ですが、花崗岩がむき出しになった山の状況や驚いて見守る人々の様子よく表しているようです。 |
発見された銅鐸の扱い
銅鐸発見の報は、草津警察署から滋賀県令へ伝えられ、翌9月15日に滋賀県令から内務卿へ伝えられました。そこから博物局(東京の帝室博物館の管轄部署?)へ送られたという経緯です。現在なら写真を撮って送るのでしょうが、当時は銅鐸の摺形をとって博物局へ送られました。
明治15年8月、最大の銅鐸ともう1個の銅鐸2個を国で買い上げるとの依頼が出され、翌年2月に納入されました。
残る12個の銅鐸は当時の遺失物の取扱法に則り、土地の所有者へ下げ渡されたのです。
当時作成された「埋蔵物録」に出土した銅鐸の大きさと重さが書かれており、それが直接的な記録です。残念ながら、その時に作成された銅鐸の摺形は残されていないようです。
発見された銅鐸の行方
14個の銅鐸の内、2個は国の所有物となったが、下げ渡された12個の銅鐸はその後、時を経て散逸してしまい、現在、地元には残っていません。
12個の銅鐸の中で記録が残されているのは、知恩院所蔵の銅鐸です。地元の寺から寄付をされた証文が残されています。箱書にも「近江で見つかったもの」と書かれているそうです。
現在、天理大学付属参考館に所蔵されている銅鐸も箱書があり、同様のことが書かれています。
その後、京都大学名誉教授の梅原末治さんや奈良国立文化財研究所の佐原真さんなどの尽力により現在では14個中12個の銅鐸の所在地が判明しています。
国内では、天理大学付属天理参考館、辰馬考古資料館所蔵の銅鐸が、かって大岩山で見つかった銅鐸であることが判明しています。
幾つかの銅鐸は海外へ流出し、ケルン東アジア研究所やサンフランシスコ・アジア美術館、ミネアポリス美術研究所で所蔵されているものもあります。
発見された銅鐸
多くの関係者の努力で、明治発見の銅鐸の一覧が作成されています。
発見された銅鐸の一覧
主要な仕様を表に示します。記号 | 種別 | 型式1 | 型式2 | 紋様 | 所蔵・保管 | 総高(cm) | 重量(kg) |
M1 | ◎ | W式-5 (突線鈕5) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | 東京国立博物館 一号鐸 | 134.7 | 45.5 |
M2 | ◎ | W式-3 (突線鈕3) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | 東京国立博物館 二号鐸 | 74.1 | 14.3 |
M3 | W式-3 (突線鈕3) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | 天理大学附属参考館 | 70.2 | 9.3 | |
M4 | W式-2 (突線鈕2) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | ケルン市立東アジア美術館 | 69.0 | 10.1 | |
M5 | 〇 | W式-3 (突線鈕3) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | 知恩院 | 72.7 | 10.5 |
M6 | W式-3 (突線鈕3) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | サンフランシスコ・アジア美術館 | 62.7 | − | |
M7 | W式-3 (突線鈕3) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | 個人蔵 | 67.2 | 9.1 | |
M8 | 不明 | ||||||
M9 | W式-2 (突線鈕2) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | MOA美術館 | 62.5 | 12.1 | |
M10 | ◎ | W式-3 (突線鈕3) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | 辰馬考古資料館 | 59.6 | 6.1 |
M11 | ◎ | W式-2 (突線鈕2) | 三遠式 | 6区袈裟襷 | 辰馬考古資料館 | 50.8 | 7.5 |
M12 | 不明 | ||||||
M13 | W式-1 (突線鈕1) | 大福型 | 6区袈裟襷 | 國學院大學 | 47.5 | 5.1 | |
M14 | W式-3 (突線鈕3) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | ミネアポリス美術研究所 | 44.4 | - |
記号:Mは明治を示す 順番は「埋蔵物録」の記載に準じる
種別:◎は重要文化財 ○は重要美術品
型式
M4およびM11は、W式-3とする資料もあるが、難波洋三氏の分類に従い、W式-2とした
不明銅鐸
M8:該当する銅鐸は不明、「埋蔵物録」によれば 高さ:2尺5分、重量:2貫3百目
M12:該当する銅鐸は不明、「埋蔵物録」によれば 高さ:1尺6寸5分、重量:1貫百目
種別:◎は重要文化財 ○は重要美術品
型式
M4およびM11は、W式-3とする資料もあるが、難波洋三氏の分類に従い、W式-2とした
不明銅鐸
M8:該当する銅鐸は不明、「埋蔵物録」によれば 高さ:2尺5分、重量:2貫3百目
M12:該当する銅鐸は不明、「埋蔵物録」によれば 高さ:1尺6寸5分、重量:1貫百目
** 銅鐸の写真をクリックすると拡大表示され、データが表示されます
各銅鐸の所蔵者は、上の表のとおりです。写真撮影者の著作権もあるので注意願います。
注目すべき点
明治発見の銅鐸の一覧を眺めて、注目すべき点を簡単に列挙します。その意義や解説は「近江の銅鐸の位置付け」のところで述べます。
・形式的には新しいW式(突線鈕式)銅鐸ばかりである。
・M3、M6、M14:近畿式銅鐸であるが、鈕の双頭渦紋飾耳を3個とも欠く(切り取られ)
・M13:「見る銅鐸」がほとんどの中、「聞く銅鐸」に分類されるW式-1(突線鈕1)が含まれる
・不明銅鐸M12の候補として、ウースタ美術館所蔵の銅鐸が大岩山出土として、島根県埋蔵
W式-1:1個、W式-2:3個、W式-3:7個、W式-5:1個 の内訳となる。
W式-4が無いことも一つの特徴と思われる。
大岩山出土銅鐸の写真で、M1だけが突出して他のものより大きく写っているが
他の銅鐸との中間の大きさであるW式-4がないため目立っている。
・M1:日本最大で、最新のかつ最後となる銅鐸、近畿式銅鐸で三遠式要素を備えている
W式-4が無いことも一つの特徴と思われる。
大岩山出土銅鐸の写真で、M1だけが突出して他のものより大きく写っているが
他の銅鐸との中間の大きさであるW式-4がないため目立っている。
・M3、M6、M14:近畿式銅鐸であるが、鈕の双頭渦紋飾耳を3個とも欠く(切り取られ)
M14はさらに鰭の飾耳6個がすべてない、最初から無かった可能性もある
(昭和発見の銅鐸でも鈕の飾耳が同様に切り取れている、次節で考察している)
・M11:三遠式銅鐸が1個含まれる
(昭和発見の銅鐸でも鈕の飾耳が同様に切り取れている、次節で考察している)
・M13:「見る銅鐸」がほとんどの中、「聞く銅鐸」に分類されるW式-1(突線鈕1)が含まれる
・不明銅鐸M12の候補として、ウースタ美術館所蔵の銅鐸が大岩山出土として、島根県埋蔵
文化財センターの「銅鐸出土地名表」に推定ながら挙げられている。
該当銅鐸の仕様:W式-1(突線鈕1) 6区袈裟襷紋 大福型銅鐸 高さ46.6cm
大きさからすると、上記M12に近いが、「埋蔵物録」では 高さ:50cmとなり3.4cmの
差がある。大福型という形式から考えると、大岩山の銅鐸の可能性もある?
該当銅鐸の仕様:W式-1(突線鈕1) 6区袈裟襷紋 大福型銅鐸 高さ46.6cm
大きさからすると、上記M12に近いが、「埋蔵物録」では 高さ:50cmとなり3.4cmの
差がある。大福型という形式から考えると、大岩山の銅鐸の可能性もある?