近江の銅鐸
大岩山で見つかった銅鐸を除く、滋賀県で見つかった銅鐸をまとめています。
伝聞だけで伝わるもの、実物は存在するが出土地は「伝近江国」など伝聞となっているもの など、正確さには欠ける物も含みます。
伝聞だけで伝わるもの、実物は存在するが出土地は「伝近江国」など伝聞となっているもの など、正確さには欠ける物も含みます。
出土地
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明治、昭和に大岩山で見つかった銅鐸以外に、近江各地でも銅鐸が見つかっています。
出土した場所と時期が判っているものばかりではなく、実物は存在していて所蔵されているが、出土地は言い伝えになっている銅鐸があります。 また、文献で発見場所とサイズが書いてあるが、実物は残されていないものもあります。 近江の銅鐸出土地 [銅鐸博物館「大岩山出土銅鐸図録」を加工] |
発見された銅鐸
発見された銅鐸の一覧
主要な仕様を表に示します。注記 | 種別 | 型式1 | 型式2 | 紋様 | 所蔵・保管 | 出土地 | 総高(cm) | 重量(kg) |
小銅鐸 | 滋賀県 | 栗東市 下鈎遺跡 | 3.4 | 5.2g | ||||
小銅鐸 | 滋賀県 | 彦根市 松原内湖 | 5.5 | 40.4g | ||||
注1 | U式-2 (外縁付鈕2) | 4区袈裟襷 | 個人蔵 | 草津市 志那内湖 | 12.5 | 0.3 | ||
注2 | ◎ | W式-1 (外縁付鈕1) | 2区流水紋 | 倉敷考古館 | 守山市新庄 | 42.8 | 5.2 | |
不明 | 不明 | 守山市新庄 | 不明 | 不明 | ||||
不明 | 不明 | 守山市新庄 | 不明 | 不明 | ||||
不明 | 不明 | 守山市新庄 | 不明 | 不明 | ||||
注3 | V式-1 (扁平鈕1) | 4区袈裟襷 | 東京国立博物館 | 竜王町山面 | 22.0 | 0.82 | ||
注3 | V式-2 (扁平鈕2) | 6区袈裟襷 | 東京国立博物館 | 竜王町山面 | 36.1 | 1.18 | ||
注4 | W式-3 (突線鈕3) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | 個人蔵 | 推定大岩山 | 約50cm | ||
注5 | ◎ | W式-3 (突線鈕3) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | 石山寺 | 大津市 石山寺周辺 | 90.9 | |
注6 | V式-1 (扁平鈕1) | 1区流水紋 | 国立歴史民俗 博物館 | 伝琵琶湖湖底 | 45.0 | |||
注7 | 〇 | W式-4 (突線鈕4) | 近畿式 | 6区袈裟襷 | 名古屋市博物館 | 伝長浜市内 | 103.5 | |
注8 | 〇 | U式-1 (外縁付鈕1) | 2区流水紋 | 辰馬考古資料館 | 伝近江国 | 31.7 | ||
注9 | V式-2 (扁平鈕2) | 4区袈裟襷 | 辰馬考古資料館 | 伝近江国 | 31.5 | |||
注10 | 不明 | 不明 | 伝 崇福寺 | 5尺5寸 | ||||
注11 | 不明 | 不明 | 伝 石山寺 | 5尺 | ||||
注12 | V式? | 6区袈裟襷 | 東浅井郡 草野村 | 41.5 | ||||
注13 | 銅鐸飾耳 W式-3 | 近畿式 | 守山市教育委員会 | − | - |
注記
注1:【志那銅鐸】高さ12.5cmと銅鐸としては最小の部類で、発見された場所が琵琶湖畔の湖中となっている。「小銅鐸」に区分けされることがある。(詳細は後述)
注2:【新庄銅鐸】寛政年間に守山市新庄町から4個発見され、1個は倉敷考古館にあることが判って
いるが他の3個については所在不明。横帯、舞に絵が描かれている。
注3:【山面銅鐸】明治24年(1891)に竜王町山面の丘陵地斜面から2個が入れ子状態で見つかった。
新庄銅鐸(注2) 総高:42.8cm 【所蔵:倉敷考古館】 |
山面銅鐸(注3) 総高 左:31.6cm 右:22cm 【所蔵:東京国立博物館】 |
琵琶湖銅鐸(注6) 総高:45cm 【所蔵:国立歴史民俗博物館】 |
銅鐸の写真をクリックすると拡大表示され、データが表示されます。 |
注4:昭和発見された銅鐸10個以外に、もう1個銅鐸が出土していたと見られる情報がある。
銅鐸発見後、近江八幡の金属回収業者が、トラックの荷台に高さ50cmほどの銅鐸を吊り
下げて廃品回収にまわっていたという複数の証言があり、現在個人の所有物となっている
(野洲市教育委員会 進藤武氏 資料)
注5:文化3年(1806)に大津市の石山寺辺から見つかった大型の近畿式銅鐸。
均整の取れた姿で紋様も精緻な、厚さが約2mmととても薄い。頭頂に大きな飾耳を
持つ。
注6:琵琶湖の湖底から出土したとされる。流水紋がくっきりと残された美しい銅鐸。
注7:近江で出土した唯一つのW式-4の大型銅鐸。出土地は、伝近江国とか伝長浜市とされる。
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写真左 石山寺周辺出土銅鐸(注5)
総高:90.9cm 【所蔵:石山寺】 写真右 伝長浜市内出土銅鐸(注7) 総高:103.5cm 【所蔵:名古屋市博物館】 |
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銅鐸の写真をクリックすると拡大表示され、データが表示されます。 |
注8:実物が辰馬考古資料館にあるが、出土地は伝近江国としているのみで、詳細な場所は不詳。
辰馬考古資料館には出土地不明としてもう1点、同形・同サイズの同范銅鐸がある。
注9:実物が辰馬考古資料館にあるが、出土地は伝近江国としているのみで、詳細な場所は不詳。
注10:12世紀に記された『扶桑略記』(ふそうりゃくき)に、「天智天皇7年(668年) 滋賀県 大津市に
崇福寺(すうふくじ)を建立する際、宝鐸が発見された」と書かれている。
大きさは5尺5寸とあり、換算すると165cmの巨大な銅鐸になる。
注11:石山寺は奈良時代に創建されたが、造営工事の時に宝鐸(銅鐸)が出土したと言い伝えられており、
14世紀に作成された「石山寺縁起絵巻」に銅鐸が見つかった時の様子が描かれている。
この銅鐸の大きさが5尺(150cm)と伝えられている。
石山寺周辺からは(注5)の大型銅鐸が出土しており、単なる伝説として片づけられない。
注12:この銅鐸の情報は、安土城考古博物館の資料や銅鐸博物館の資料に記載されるケースと記載
されないケースがあり詳細はよく判らない。
注13:下長遺跡の旧河道から、やや大型の近畿式銅鐸の飾耳だけが出土している。これの元となる
銅鐸は分かってない。
注目すべき点(近江の銅鐸)
近江の銅鐸(大岩山を除く)の一覧を眺めて、注目すべき点を簡単に列挙します。その意義や解説は「近江の銅鐸の位置付け」のところで述べます。
・大岩銅鐸は全てが新段階のW式(突線鈕式)であったが、近江として眺めてみると、最古段階
T式
(菱環鈕)の銅鐸はないものの、古段階U式(外縁付鈕)、中段階V式(扁平鈕)の幅広い
時代範囲の銅鐸が出土している
・日本最小の「小銅鐸」が環濠集落の水の祭祀場の溝から見つかっている。
・大岩山銅鐸にはなかった W式-4(突線鈕4式)の銅鐸が存在する。とは言え、1点のみである。
近江全般にみてW式-3までは多数あるが、W式-4以降は少ない。
・新庄銅鐸は現在倉敷考古館に1点あるが、同じ石型鋳型で作った同范銅鐸が4個見つかっている。
桜ケ丘1号鐸、出土地不詳辰馬考古資料館404&405号鐸、鳥取県泊銅鐸
・竜王町山面で見つかった銅鐸は、丘陵地の頂上付近から出土、2個が入れ子状態であった。
場所としては、大岩山と同じように三上山に隣接する丘陵地であり、大岩山の丘陵地を
ぐるりと回った所で、直線距離では約2.5kmの位置である。
丘陵地の頂上付近の斜面から出ており、入れ子になっていることから考えると、大岩山と似た
環境、同じような埋納状況で、大岩山の銅鐸との関連性が考えられる。
(菱環鈕)の銅鐸はないものの、古段階U式(外縁付鈕)、中段階V式(扁平鈕)の幅広い
時代範囲の銅鐸が出土している
・日本最小の「小銅鐸」が環濠集落の水の祭祀場の溝から見つかっている。
・大岩山銅鐸にはなかった W式-4(突線鈕4式)の銅鐸が存在する。とは言え、1点のみである。
近江全般にみてW式-3までは多数あるが、W式-4以降は少ない。
・新庄銅鐸は現在倉敷考古館に1点あるが、同じ石型鋳型で作った同范銅鐸が4個見つかっている。
桜ケ丘1号鐸、出土地不詳辰馬考古資料館404&405号鐸、鳥取県泊銅鐸
・竜王町山面で見つかった銅鐸は、丘陵地の頂上付近から出土、2個が入れ子状態であった。
場所としては、大岩山と同じように三上山に隣接する丘陵地であり、大岩山の丘陵地を
ぐるりと回った所で、直線距離では約2.5kmの位置である。
丘陵地の頂上付近の斜面から出ており、入れ子になっていることから考えると、大岩山と似た
環境、同じような埋納状況で、大岩山の銅鐸との関連性が考えられる。