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形状から見た位置付
出土した銅鐸の数から近江の特徴を見ましたが、ここでは、銅鐸の型式や紋様から見た近江の銅鐸の特徴を調べます。近江の銅鐸のユニークさが分かります。
形状や型式

最大で最後の銅鐸移

銅鐸の数を切り口にして眺めてみると、近江が突出しているわけではないのですが、銅鐸のサイズで見てみると、134.5cm最大の銅鐸が大岩山で出ています。それが最大の特徴です。
型式は新段階のW式-5(突線鈕5)で最新の形です。この型式は破片も含めて全国で20個、サイズが判るものは17個ほどです。ほとんどが100cmを超える大きさで、120cmを超えるのは3個です。

最新で最大、そうして最後となる銅鐸が近江で埋納されていました。

新段階銅鐸の出土状況

W式-5(突線鈕5)の数の話が出たところで、新段階W式銅鐸の分布をみてみます。

旧国名 W式-1W式-2W式-3W式-4W式-5合計
紀伊0337417
三河2053212
遠江02212227
尾張002125
近江
(大岩山)
5
(4)
5
(5)
14
(12)
1
(0)
1
(1)
26
(22)
総数1625583317
旧国別・新段階銅鐸の出土数(抜粋 最新型の出土数順)
出典:「銅鐸分布考 型式別分布」(2004/12/27)[Web「邪馬台国とは何だろう?」]
【最新型銅鐸の数】
新段階銅鐸の国別出土数は、近江は遠江と並んでトップクラスです。
しかし、気になるのは、阿波、紀伊、三河、遠江などでは複数個のW式-5が出土しているのに、近江では大岩山で1個出ただけです。
新段階でも、古い方の銅鐸W式-1、-2が多く新しいW式-4、-5の数は少ないのです。
表の左端の数字は、最新型の銅鐸の数の順に並べた順位です。オリンピックの金銀銅メタルの数の順位と同じやり方です。
見る銅鐸はドンドン大きくなっていくという、大きさに価値(権威・威厳など)を見出した銅鐸なのでこの比較には意味があると考えます。

近江の新段階の銅鐸の総数は遠江と並んでトップクラスです。近江は新段階初期の銅鐸の採用(W式-1、2)が多く、遠江はさらに大型化する(W式-4、5)が多いという点で異なります。

【新段階W式-4の銅鐸の欠落(大岩山)】
新段階のW式-5の前段階、W式-4(突線鈕4)はサイズが80cm〜110cmの大きさですが、全国で33個、W型-5の倍くらい出土しています。
全国にそれだけあるのに、大岩山からは1個も出ていないのです。近江全体で見ると1個あるのですが、新段階W式銅鐸ばかり24個も出土している大岩山としては、なんとも不思議なことです。
前項のW式-5も含めて考えると、

近江の銅鐸のマツリは新段階W型-3(突線鈕3)で止まってしまい、W型-4&5の銅鐸は導入されず、最後の最後に最大のW型-5を導入した、ということになります。
近江の銅鐸祭祀の特徴と言えるでしょう。
出土状況

近畿式と三遠式の出土と両者の統合

【両型式が一緒に出土】
近畿式銅鐸、三遠式銅鐸は、新段階W型-2の時代に確立したと言われています。
近畿と東海、異なる文化圏で対立軸のように語られることもありますが、ほとんど同じなのです。微細な所に違いがあるだけで、言ってみれば「同族同士が少し違うところで目印を変えている」ような感じです。
とは言いながら、違いを違いとして主張してきたのです。近畿式と三遠式の銅鐸が多く出土する東海地方でも、近畿式と三遠式の銅鐸が一緒に出土するところはありません。ただ、丹後の下安久で1個ずつの共判例があるのみです。
見る銅鐸になってからも三遠式銅鐸は鳴らして使うこともあったことが判っていますが、大岩山の三遠式は「見る銅鐸」ですが、古い型式の三遠式銅鐸の内面突起の摩耗が大きく新しい三遠式銅鐸の摩耗は少ないそうです。使っている期間の長い古いタイプのものほど摩耗が大きい、すなわち、継続的に鳴らされていたことになります。
近江でも(あるいは近江を超えて)三遠式を使っている集落は継続的に鳴らしていたということです。
このような事実からも、多くの集落が銅鐸祭祀をしながらも、それぞれのやり方をしていて、最後に大岩山に集められた、ということが判ります。

大岩山では近畿式と三遠式の銅鐸が一緒に多く埋納されていますが、他ではほぼ見られません。

【紋様の折衷】
大岩山の銅鐸は、近江各地の集落あるいは近江を超えて周辺国の銅鐸を持ち寄ったと考えられますが、この地域の人たちは近畿式銅鐸を採用したグループと三遠式銅鐸を採用したグループが混在していたようです。
これらの銅鐸の紋様を調べると、外見は「近畿式銅鐸」なのに三遠式の紋様が盛り込まれていたり、逆に「三遠式銅鐸」に近畿式の要素が入っていて、折衷型の様相を示しているそうです。
互いの違いを主張し離れていくのではなく、互いの要素を取り込んで融和を図るような感じです。

三遠式と近畿式の紋様の折衷型の銅鐸が見つかるのは大岩山だけです。

聞く銅鐸と見る銅鐸が混在(大岩山)

銅鐸の複数埋納を調べると、聞く銅鐸は聞く銅鐸同士で、見る銅鐸は見る銅鐸同士で埋納されています。 型式で言うと、新段階W式-1とW式-2を境として、どちらかの銅鐸が埋納されているのです。 この観点で大岩山の銅鐸を見ると、多くが見る銅鐸 W式-2以降ですが、聞く銅鐸 W式-1が4個混じっているのです。そこがこの地のユニークなところです。 聞く銅鐸、見る銅鐸と言っても後世の我々が、銅鐸に残された鳴らした痕跡やサイズ、型式から判断して決めたことであり、肝心なのは当時の人がどのように使っていたのか? ということが大切です。 大岩山のW式-1銅鐸は、鳴らす目的で使っていたのか、見る祭祀として使っていたのか、銅鐸内面突帯の分析で分かるのではないでしょうか。

聞く銅鐸と見る銅鐸が一緒に埋納されているのは大岩山だけです。

ちなみに、新段階の近畿式銅鐸は「鳴らす」ことはなかったようですが、三遠式銅鐸は鳴らされた痕跡が残されているようです。大きさや吊り手から判断して据え置いていたと考えられますが、時々は鳴らしていたようです。

銅鐸の一括埋納

出土地地図
銅鐸出土地(埋納場所) 
[出典:「大岩山出土銅鐸図録」銅鐸博物館]
銅鐸の埋納は、大きくは、弥生中期末と後期末の2回あったとされています。2015年、淡路島で7個の古い松帆銅鐸が見つかり、中期中ごろにも埋納行為があったという見方が出てきました。
大岩山の銅鐸は、後期末の埋納に当たりますが、40〜50m離れた3ヶ所に分けて埋められているので、細かく見ると3回に分けて埋納されたのは事実です。
多くの銅鐸が埋納された加茂岩倉遺跡、荒神谷遺跡、桜ケ丘遺跡は、一つの穴に埋納されています。
これらの遺跡はいずれも古い銅鐸の埋納ですが、大岩山は新しい銅鐸の埋納です。
大岩山で3回に分けて埋納されたのは、理由は分かりませんが、埋納について当時の人たちの間で葛藤があったのかも知れません。
銅鐸の埋納風景
銅鐸の埋納風景想像図 [画:安芸早穂子] 
[出典:「大岩山出土銅鐸図録」銅鐸博物館]

左の絵は、日本画家の安芸早穂子さんが銅鐸埋納の様子を想像して描かれた絵です。
大岩山の斜面に大きな穴を掘って、人々が名残を惜しみながら銅鐸を丁寧に埋納している様子をよく表しているようです。  

紀伊や遠江など新しい銅鐸が多い地域での埋納方法は、1か所に埋められているのではなく、同じ谷筋にあるあちらこちらの遺跡(数100m〜数km間隔)に分散して埋められており、距離的には近場なので「近接埋納」と言われています。

新しい銅鐸の一括埋納は近江の特徴と言えます。
まとめ
銅鐸の形状や出土状況からみた近江の特徴は、

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