大岩山と関わるのは?
銅鐸祭祀の時代、祭殿を有する遺跡として伊勢遺跡と下鈎遺跡の2つがありました。銅鐸祭祀や埋納に関わったのはどの遺跡でしょうか?
発掘資料からの裏付けは取れないのですが、状況証拠から読み解いてみます。
伊勢遺跡と下鈎遺跡の相違点
下鈎遺跡は弥生後期初めに衰退した後、伊勢遺跡の造営に少し遅れて出現します。先に述べたように、一体となった計画の下に造営された遺跡であると考えられます。
古代建築の研究者、宮本長二郎さんによれば、弥生時代の独立棟持柱は祭殿建築を象徴する役割を持ち、棟持柱を持つ高床式建物や平地式建物が祭場の中核施設となる、と指摘されています。
すなわち、両遺跡の独立棟持建物は祭殿であり、周囲に居住域を持たない祭祀域であると見なせます。同じような大きさの独立棟持柱建物が複数棟建っている点は両遺跡と物同じですが、棟数と配置の違いは祭祀の対象によるものと考えます。 両遺跡の祭殿の大きな違いは、心柱の有無です。伊勢遺跡の祭殿には心柱があります。下鈎遺跡の祭殿には心柱がありません。
伊勢神宮の祭殿にも「見せてはならない心御柱」があることを考えると、伊勢遺跡の祭祀対象の神聖性に関わるものだと考えられます。
伊勢遺跡祭殿の柱穴 [伊勢遺跡発掘調査報告書より作成] |
下鈎遺跡祭殿の柱穴 [下鈎遺跡発掘調査報告書より作成] |
祭殿の周囲に遺物がないことも神聖性と関わります。
大胆に推理すれば、銅鐸祭祀を行う伊勢遺跡に対し、下鈎遺跡では青銅器生産、水運管理のマツリを行う目的で建設されたのではないでしょうか。
銅鐸は集落の安寧をカミに願う祭祀具でそれを祀ったのが伊勢遺跡、民に直接関わる産業・交易の繁栄を願ったのが下鈎遺跡という見方です。 クニのマツリ、神聖な祀りという観点からは、伊勢遺跡が銅鐸祭祀と埋納に深くかかわったと考えます。
伊勢遺跡と大岩山銅鐸
前節では、遺構や遺物、遺跡の出現・衰退など考古学的な資料から推論し、伊勢遺跡が銅鐸祭祀と埋納に深くかかわったと考えました。
ただ、残念ながら大岩山銅鐸と伊勢遺跡を直接つなぐ考古資料は見つかっていません。
しかしながら、大岩山銅鐸と伊勢遺跡の関係は、筆者だけだはなく、これらの遺跡、遺物に関わりあってきた考古学研究者にとっても非常に大きな関心事です。いろいろ推察はできるけど、考古学的な物的資料として話が出来ないもどかしさがあります。
ここからは、状況証拠から大胆に推論を進めます。(読み物と考えてください)
@大岩山には24個の新段階の銅鐸が埋納された。
円周上の祭殿に銅鐸を祀る主催者として、上のCでは近江の拠点集落としましたが、大きく考えると、銅鐸祭祀圏のクニグニと考える可能性もあります。独立棟持柱建物の祭殿は、唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡などの強力な拠点集落で1棟が建てられ、何回も建替えて使われた特殊な建物です。
近江にいくつかある中規模拠点集落にしては、大層すぎます。
クニにふさわしい建物なので、銅鐸祭祀圏のクニグニが共通の祭祀空間を建設したのかも知れません。
大岩山には東海で盛んであった三遠式銅鐸が複数個出ていることの説明にもなります。
これまで、近江の各地で使われていたW式-1〜W式-3の銅鐸に加え、最新最大の銅鐸を持ってきた。
この最大の銅鐸は、型式的には、W式-4を飛び越えて最新の銅鐸W式-5である。どこかで使われていたというより、各集落の共通のシンボルとして製作したものではないか?
各地で使われていた銅鐸は、型式こそ違え、そこには優劣はなく格の違いもない神聖な祭祀対象であった。
A伊勢遺跡には、24棟の祭殿建設の計画があった
この最大の銅鐸は、型式的には、W式-4を飛び越えて最新の銅鐸W式-5である。どこかで使われていたというより、各集落の共通のシンボルとして製作したものではないか?
各地で使われていた銅鐸は、型式こそ違え、そこには優劣はなく格の違いもない神聖な祭祀対象であった。
方形区画に1棟の祭殿、円周部には7棟の祭殿が見つかっている。
円周部の祭殿は等間隔となっており、円周上に未発見の祭殿があると仮定すると、全部で23棟の祭殿が配置できる。
方形区画の1棟と併せて、24棟の祭殿となる。(方形区画に対称的にもう1系列の建物群があった可能性があり、その場合25棟の祭殿となる)
祭殿をなぜ円周上に配置したのか? これは現在の政治世界にも通用する、対等性の確保にあるのではないか。
B伊勢遺跡の祭殿には銅鐸が祀られていた?
円周部の祭殿は等間隔となっており、円周上に未発見の祭殿があると仮定すると、全部で23棟の祭殿が配置できる。
方形区画の1棟と併せて、24棟の祭殿となる。(方形区画に対称的にもう1系列の建物群があった可能性があり、その場合25棟の祭殿となる)
祭殿をなぜ円周上に配置したのか? これは現在の政治世界にも通用する、対等性の確保にあるのではないか。
当時、実際に円周上に建物が全て建っていた訳ではないが、グランドデザインでは23棟の建設計画があったと考えられる。
では、ここに何を祀ったのか? 大型祭殿を建て、神聖性を示す心柱を設けて、そこに祀る 対象としては、クニの祭祀の象徴である銅鐸以外には考えられない。
方形区画の祭殿に、共有で最大の銅鐸を祀り、円周上の祭殿には各拠点集落の銅鐸を祀る。
このように推測すれば、数値的に辻褄がよく合う。
C方形区画の建物の用途は?
では、ここに何を祀ったのか? 大型祭殿を建て、神聖性を示す心柱を設けて、そこに祀る 対象としては、クニの祭祀の象徴である銅鐸以外には考えられない。
方形区画の祭殿に、共有で最大の銅鐸を祀り、円周上の祭殿には各拠点集落の銅鐸を祀る。
このように推測すれば、数値的に辻褄がよく合う。
方形区画には祭殿のほか、一番大きい高床式の主殿と平地式の脇殿があり、小型の独立棟持柱建物があります。これらは2重の柵で囲まれた厳重な監視の対象となる建物です。
主殿は棟持柱を持たない高床式建物なので祭殿ではなく、かと言って生活の場でもなく、各集落の首長が集まって協議・祭礼を行う場ではないか?
そうして、隣接した祭殿には共用の最大銅鐸が祀ってある。
D卑弥呼が新倭国の女王となり、銅鐸のマツリを廃止し鏡の祭祀に変えた(宗教改革)
そうして、隣接した祭殿には共用の最大銅鐸が祀ってある。
魏志倭人伝によれば、クニグニの争いが絶えず首長たちは相談して霊力に優れた卑弥呼を倭国女王として共立した。その場が伊勢遺跡であったと考えられています。
力的には弱小の卑弥呼は、魏を後ろ盾として倭国を治めることを画策し魏に使節を送った。魏は、卑弥呼の擁護者となり鏡を与えた。
卑弥呼は、これまでの弥生の祭祀具を廃止し、銅鐸に変えて鏡の祀りに変えることにした。
廃止を命じられた近江の首長たちのうち、あるものは直ぐに従い、あるものはグズグズ遅らせ、あるものは最後まで抵抗し、最後は強い強制力に従って埋納した。
このように、3回にわたり銅鐸が埋納された。これが、大岩山3回の埋納の顛末と想像した。
E卑弥呼共立を主導した伊勢遺跡は銅鐸祭祀の終焉と共に廃絶した
力的には弱小の卑弥呼は、魏を後ろ盾として倭国を治めることを画策し魏に使節を送った。魏は、卑弥呼の擁護者となり鏡を与えた。
卑弥呼は、これまでの弥生の祭祀具を廃止し、銅鐸に変えて鏡の祀りに変えることにした。
廃止を命じられた近江の首長たちのうち、あるものは直ぐに従い、あるものはグズグズ遅らせ、あるものは最後まで抵抗し、最後は強い強制力に従って埋納した。
このように、3回にわたり銅鐸が埋納された。これが、大岩山3回の埋納の顛末と想像した。
伊勢遺跡は銅鐸祭祀の連合体の中核として活動し、卑弥呼共立を主導したが、卑弥呼は魏の力を背景に自らの立場を強めるために新しい鏡の祭祀を導入した。
当然、銅鐸祭祀は廃止される運命で、皮肉にも伊勢遺跡は銅鐸祭祀の終了を余儀なくされ、祭殿も廃絶となった。
当然、銅鐸祭祀は廃止される運命で、皮肉にも伊勢遺跡は銅鐸祭祀の終了を余儀なくされ、祭殿も廃絶となった。
円周上の祭殿に銅鐸を祀る主催者として、上のCでは近江の拠点集落としましたが、大きく考えると、銅鐸祭祀圏のクニグニと考える可能性もあります。独立棟持柱建物の祭殿は、唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡などの強力な拠点集落で1棟が建てられ、何回も建替えて使われた特殊な建物です。
近江にいくつかある中規模拠点集落にしては、大層すぎます。
クニにふさわしい建物なので、銅鐸祭祀圏のクニグニが共通の祭祀空間を建設したのかも知れません。
大岩山には東海で盛んであった三遠式銅鐸が複数個出ていることの説明にもなります。
以上のようなストーリを描いてみました。