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小銅鐸・飾耳
20cm以下くらいの小さい銅鐸が見つかっており「小銅鐸」と分類されています。 マツリの仕方や取り扱いが銅鐸とは異なり別のものと考えられています。近江でもこのような 小銅鐸が2〜3個出土しています。また、切り取られた銅鐸の飾耳が1点出土しています。
小銅鐸

小銅鐸とは

数cmから10数cm前後の大きさで、形は銅鐸と同じです。6〜8cmサイズのものが多いです。
小銅鐸の出土数は全国で50数個、銅鐸出土数の1/10以下と少ない数です。中・大型の銅鐸とはサイズだけではなく使用目的が違うと言われています。中・大型銅鐸は、人里から離れた山裾に埋納されましたが、小銅鐸は住居や溝、水辺あたりから出土します。
出土する地域は九州から関東まで、銅鐸の出土範囲より広く、福岡県や千葉県、静岡県で多く見つかっています。時代範囲も弥生中期から古墳時代まで広い範囲で見つかっていますが、静岡から以東のものは古墳時代以降のようです。
銅鐸の祖型の一つとして朝鮮の小銅鐸が挙げられています。日本の弥生時代前期に当たる時代の10〜20cmの小さな銅鐸です。これを元にして、鰭を付けたり、紋様を入れて日本独自の「銅鐸」に作り上げた・・・という見解です。
銅鐸の権威者、難波洋三さんによると、日本の古い小銅鐸には、朝鮮の小銅鐸によく似たものがあり、それを経由してオリジナル作品を作ったのかもしれません。ただし、その後出てくる小銅鐸は、ほとんどが銅鐸の模倣品だそうです。
小銅鐸は、銅鐸とは異なり、集落内の溝から出てくることが多いので、銅鐸の祭りとは別の低位の祭祀に使用されたと、難波さんは考えておられます。

近江の小銅鐸

近江で見つかった小銅鐸は、2個とする資料と、3個とする資料があります。
志那銅鐸は、総高さが12.5cmの小さな銅鐸ですが、鈕は菱形で鰭も付いており袈裟襷紋もあり形状的にはしっかりとした銅鐸です。銅鐸としては小さく、一方「小銅鐸」としては大きい部類です。びわ湖の湖畔(水辺)から出土していることから、小銅鐸的であり、著者によって分類の仕方が違っているようです。
栗東市の下鈎遺跡の溝から見つかった小銅鐸は、総高3.5cmで日本最小です。吊手(鈕)の断面は菱形で、本体は扁平な円形で銅鐸としての特徴を持っています。鰭や内面の突帯はありません。本体(身)の厚みは0.5〜1mmと非常に薄く作られています。弥生時代中期末の環濠集落の水の祭祀場の溝から見つかりました。
松原内湖から出土した小銅鐸は、総高5.5cmで本体はやや扁平な円形です。しかし、吊り手(鈕)の断面が丸形で、銅鐸の鈕とは違っています。
小銅鐸
小銅鐸 下鈎遺跡(左)、松原内湖(右)
【所蔵 滋賀県教育委員会】
小型銅鐸
小型銅鐸 草津市志那出土
【所蔵 個人】
鐸銅の飾耳
古墳時代初期に栄えた下長遺跡から、鈕の双頭渦紋飾耳が切り取られた状態で出土しています。
下長遺跡は、後期に栄えた伊勢遺跡が衰退する直前に出現した遺跡です。 びわ湖水運を管轄した集落と考えられており、卑弥呼政権とのつながりを示す「王の威儀具」が数多く出土する遺跡です。
銅鐸の飾耳
銅鐸の飾耳
(出典:守山市史(考古編))
【所蔵 守山市教育委員会】
大岩山に銅鐸が埋納され、伊勢遺跡が衰退した後の、古墳時代初期の旧河道から飾耳が出土しています。祭殿の北約100mの旧河道のそばから出土しました。大きさは、幅が6.4cm、高さが3.5cmで、近畿式銅鐸の鈕に付く飾り耳を切り取ったものです。
耳の大きさから銅鐸本体は約70cmの銅鐸と考えられます。下長遺跡で見つかった銅鐸の飾耳に対応する銅鐸は見つかっていません。
銅鐸は非常に硬く簡単に割れるものではありません。過熱して柔らかくし切り取ったものと考えられます。銅鐸祭祀が終わった後に、意図的に切り取って所持していたのでしょう。 目的は分かりませんが、飾りや護符として持っていたのか、銅鐸祭祀を諦めきれなかった人が隠し持っていたのか?
飾耳が見つかった旧河道には、玉類や王の威儀具、祭祀具などが沈められている祭祀域であり、飾耳は不用品としてではなく、これらの品々と同等に扱われる品であったようです。
弥生時代後期末、銅鐸祭祀が終わった時の銅鐸の扱いは地域によってかなり違っていたようです。
とくに近畿式銅鐸は、破壊して捨てられる地域であったり、破壊せずに埋納する地域であったりします。近江は後者ですが、飾耳は何らかの象徴として切取り大切に持っていたようです。
このような銅鐸の耳は少なからず各地でみられ、奈良の纒向遺跡でも見つかっています。

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