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近江の銅鐸のここが凄い!
このホームページでは銅鐸に関する専門的な言葉が多く出てきます。
銅鐸自体が謎の多い遺物なので、それについていの予備知識がないと分かり辛いかもしれません。
銅鐸の基本知識と時代背景を、次の章「知っておきたい基礎知識」で解説しているので、そちらを先に読んで頂くと、理解の手助けになると思います。
日本で最大の銅鐸と最小の銅鐸、バライエティに富んだ銅鐸群

【1か所で24個の銅鐸が出土】

野洲市の大岩山では、明治と昭和の2回の発見で合計24個の銅鐸が出土しており、一ヶ所から見つかった銅鐸の数としては、島根県の加茂岩倉遺跡の39個に次いで多い数です。
加茂岩倉遺跡の銅鐸は古い「聞く銅鐸」で、大岩山の銅鐸は新しい「見る銅鐸」です。この2つの遺跡での多数の銅鐸埋納の発見が、銅鐸全体の研究を促進した大きな要因と言ってよいでしょう。
旧国別に出土した銅鐸の数を集計したデータがあります。
加茂岩倉遺跡を含む出雲が50個を超えるトップで、40個前後の銅鐸を出土するのが大岩山銅鐸を含む近江、紀伊、阿波、三河の国などとなります。
総個数で言えば、近江はトップ5の一つですが、内容の豊かさは日本で1番ではないでしょうか。
  (注記:旧国別での比較をしたが、現在の府県別では、兵庫県がトップとなる)

【銅鐸のサイズ】

 *日本最大の銅鐸:大岩山から高さ135cmの最新式かつ最後となる銅鐸が出ています
 *日本最小の銅鐸:小銅鐸に分類されますが、下鈎遺跡から高さ3.5cmの日本最小の銅鐸です
最大・最小の銅鐸
日本最大の銅鐸と最小の銅鐸
小銅鐸【所蔵:滋賀県】、大銅鐸【所蔵:東京国立博物館】

【バライエティに富んだ銅鐸群】

・古い銅鐸から新しい銅鐸まで、幅広い時代範囲にまたがった銅鐸が出土している
・聞く銅鐸と見る銅鐸が同時に出土
  一つの遺跡から複数個の銅鐸が出土する場合、聞く銅鐸ばかりか、見る銅鐸ばかりが 出土するのが
  一般的だが、大岩山からは両方が一緒に出土している
・近畿式銅鐸と三遠式銅鐸が同時に出土
  同じく、複数個の銅鐸が出土する場合、近畿式銅鐸ばかりか、三遠式銅鐸ばかりが 出土するのが
  一般的だが、大岩山からは両方が一緒に出土している
・近畿式銅鐸の鈕の飾耳が切り取られた銅鐸
  近畿式銅鐸を強く印象付ける鈕の飾耳がない銅鐸が複数ある。切り取った跡はきれいに磨かれて
  おり、使用時に切り取ったようで、他所では見られない。
大岩山出土銅鐸
ここでは「バライエティに富んだ…」と書きましたが、これらの特徴は銅鐸の世界ではとても不思議なこと、「なぜ?」と問いかけるミステリーなのです。
詳しい状況は後の項で述べますが、「なぜ?」ということに答えられる考古学的な証拠はありません。
少しでもこのミステリーを解明すべく、状況証拠から推察し「意見の広場」に個人的な見解をまとめました。是非ご一読ください。


【日本で初めて銅鐸が発見されたところ】

銅鐸の発見は、後代の史料ですが、12世紀に記された『扶桑略記』(ふそうりゃくき)に「天智天皇7年(668年)滋賀県大津市に崇福寺(すうふくじ)を建立する際、宝鐸が発見された」とあるものが最古の発見についての記録です。ここでは宝鐸と書かれています。
当時の寺には屋根から風鐸が吊るされ、風鐸の中にある棒(舌)が風で揺れ、音を発していました。『扶桑略記』が書かれる約500年前に発見された風鐸の絵が残されていたのか定かではないのですが、外から突いて鳴らす「鐘」ではなく、内部にある舌が揺れ動いて音を出す「鐸」と判断したようです。大きさは5尺5寸と書かれているようで、それが本当なら165cmの巨大な銅鐸になります。
これは伝承であり不確かさが残りますが、言い伝えでは、日本で最初に銅鐸が発見されたのが近江となります。
同時代の史料としては、8世紀に編纂された「続日本紀」に、和銅六年(713)大倭国宇太郡で銅鐸が発見され朝廷に献上された、と記されています。大きさは3尺だったようです。注目すべきは、この時点で「銅鐸」と見做されていることです。 
銅鐸・青銅製品の鋳型が複数の遺跡から出土
銅鐸が出ている遺跡は各地にありますが、鋳型が出土する遺跡はあまり多くありません。
野洲川下流域には、青銅製品や鋳型、炉の部品などが出土している弥生遺跡が幾つかあります。守山市の服部遺跡や下之郷遺跡、野洲市の下々塚遺跡、栗東市の下鈎遺跡からも銅鐸や青銅製品の鋳型が出土しています。3つの市にまたがっていますが、距離的には近く同一地域です。
下鈎遺跡では、銅鏃の未成品(鋳造しただけでまだ仕上げていない半製品)の銅鏃が見つかっていること、青銅製品の鋳型、鋳造の際に付随的に出てくる銅残滓(銅のカス)や銅湯玉なども出土していることなどを考え合わせると、この地で青銅器を生産していたと考えて間違いないでしょう。
この地域に青銅製品の生産拠点があったと推測されます。
歴史的な意義
弥生時代後期、中国の歴史書によれば、倭国には30のクニがあった時代です。後期末には卑弥呼が共立されて、古墳時代早期が始まります。
30のクニがいきなり一つの倭国にまとまるのではなく、その前段階として銅鐸祭祀を通じて緩やかな連合体の原倭国(四国・中国地方〜近畿地方〜東海地方)が形成されていたと考えられています。 銅鐸祭祀圏がまとまっていく様は、銅鐸の形式の統合から読み取れます。
銅鐸の統合の最終段階は、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の統合ですが、これら2種類の銅鐸は異なった文化圏と考えられていた地域の出土ですが、大岩山では双方の銅鐸が出ています。
それも、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の折衷型の銅鐸があり、近畿式銅鐸に三遠式の特徴を取り入れたもの、三遠式銅鐸に近畿式の特徴を取り入れたものがあるのです。最終的には近畿式銅鐸を主体としながらも三遠式銅鐸を取り入れた日本最大の銅鐸として結実します。
言ってみれば、近江が近畿式文化圏と三遠式文化圏の融和を図り、銅鐸を統合していく様子が読み取れるのです。
そんな時代の近江に存在したのが、巨大な祭祀空間−伊勢遺跡で、大岩山からは直線距離で5km程です
伊勢遺跡からは銅鐸は出ていないのですが、銅鐸の統合、言い換えればクニの統合を主導したのが、伊勢遺跡を管轄した勢力なのです。力による統合ではなく、祭祀の統合を進めた、その証が銅鐸の統合だと考えられています。
やがて、原倭国のクニグニの間で争いが生じ、男王の下では収まらず、最終的には、伊勢遺跡の勢力が卑弥呼共立をここで主導したと考えます。
しかし、卑弥呼は新しい銅鏡祭祀を採用し、それまでの銅鐸祭祀を終わらせて、近江各地にあった銅鐸は大岩山に埋納された、と考えられます。
大岩山銅鐸、銅鐸関連遺跡のあるところ
大岩山銅鐸の立地
大岩山銅鐸が見つかった場所は、野洲川右岸の近江富士とも称される三上山を望む丘陵地帯にありました。
びわ湖に流れ込む多くの川のうち最も大きいのが野洲川で、守山市、野洲市、栗東市はその下流域平野にあたります。
昭和に見つかった銅鐸は、新幹線用の土砂採集の時に見つかったものです。大岩山の銅鐸出土地は、土砂採集で削り取られてしまい、今は平地となって以前の丘陵ではなくなっています。
跡地には、銅鐸発見の地として、野洲市歴史民俗博物館(通称:銅鐸博物館)が建設され、銅鐸が展示されています。

大岩山地図
大岩山のあるところ
野洲川下流域の銅鐸関連遺跡
大岩山から多くの銅鐸が出土していますが、このほかに近江国の各地からも銅鐸が見つかっています。とくに、大岩山近くの野洲川下流域にほ多くの銅鐸が見つかっています。
野洲川下流域では銅鐸だけではなく、銅鐸の鋳型の出土地が複数個所あります。 古い型の山面(やまづら)銅鐸が2個見つかっている場所は、三上山の裾に広がる丘陵地帯の斜面で、大岩山銅鐸の見つかった丘陵の地続きの場所です。聖地として見た時には大岩山と同じような場所になります。
(図中、伊勢遺跡を記していますが、ここからは銅鐸は出ていません。ここで銅鐸祭祀を行ったと考えられており地点を記入しています。
大岩山地図



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