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弥生時代後期末、銅鐸が大岩山に埋納されるが、一体だれが埋納儀式を主導したのでしょうか?
卑弥呼による宗教改革の強い指導があったと言われていますが、実際にこの地で埋納を推進したのは誰なのでしょうか?
難しいテーマですが、状況証拠から推察してみます。
弥生後期の拠点集落
先ず、銅鐸が用いられた弥生時代後期にどのような拠点集落が存在したか見ていきます
野洲川下流域の拠点集落
弥生時代中期には100のクニがあり、近畿では、唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡など大きな環濠拠点集落には、大きな建物と独立棟持柱建物の祭殿が建てられていました。
弥生時代中期末に大きな社会変革があり、この時期に合わせて近畿の環濠集落は衰退していきます。
銅鐸の祭祀も一時中断します。
弥生後期の拠点集落
弥生後期の拠点集落

弥生時代後期中頃、近畿の他の地域では小さな集落が分散していた時期に、近江南部には突如、大型建物を多く持つ伊勢遺跡が現れます。少し遅れるものの、ほぼ同時期に少し離れたところに、同じく複数棟の大型建物を持つ下鈎(しもまがり)遺跡が現れます。
同時代、服部遺跡も多くの竪穴住居をもつ拠点集落ですが、大型建物は見つかっていません。
弥生時代、近畿の拠点集落は5〜6km間隔で存在し、物流ネットワークを形成していたと報告されています。
しかし、伊勢遺跡と下鈎遺跡はたった1.2kmしか離れておらず拠点ネットワークとしては近すぎること、同じ形の独立棟持柱建物が同時期に建造されていること、他の地域では大型建物は見当たらないこと、などから考えて、2つの遺跡は一つのグランドデザインの下で建造されたと考えられます。時期的には見る銅鐸祭祀の復活時期と重なります。
2つの遺跡のもう一つの共通性は、銅鐸の埋納による銅鐸祭祀の終了と共に、遺跡の祭祀域が廃絶されることです。
すなわち、「見る銅鐸と共に栄え、見る銅鐸の埋納と共に衰退した遺跡」です。大岩山から伊勢遺跡までは、直線距離で約5kmと近く、聖地だったであろう三上山のふもとに当たります。
これらの事実から、近江での銅鐸祭祀の主導、大岩山での銅鐸の一括埋納にはこれらの遺跡が深く関わりあったと考えらます。
この2つの遺跡について簡単に紹介します。
 (詳しくは、それぞれの遺跡のホームページを参照してください)

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