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銅鐸の基礎知識
このHPでは、大岩山の銅鐸、近江の銅鐸を紹介・解説しますが、そこで必要となる「銅鐸の基本」 を先ず理解してください。
ここでは概要を書いており、別の章立て「銅鐸学習室」にもう少し詳細に情報を書いています。
銅鐸と分類

銅鐸とは

銅鐸は、鋳型(いがた)に解けた銅を流し込んで形作る釣り鐘型の青銅器です。「銅」と書きましたが、実際には少量の錫(すず)と鉛(なまり)が入っている合金です。
「釣り鐘」型と書きましたが、外から叩いたり突いたりして鳴らす「鐘」とは違って、内部に吊るした棒を揺り動かして鳴らす「鐸(たく)」です。
願い事やマツリに用いられた祭器で、弥生時代だけに存在した特殊なものです。当時の祭器としては剣や矛(ほこ)、戈(か)などの武器型の青銅製品があり、地域によって使い分けていたようです。
銅鐸は高さが30〜40cm程度の小型から1mを超す大型のものまでがあります。 
これまで銅鐸は500数十カ所から出土しており、出土地不明も含めると600個ほどの銅鐸が見つかっています。記録に残されているものの、存在が不明のものを含めるとさらに個体数は増えます。

小銅鐸

銅鐸と同じような形で、大きさが数cmから10数cmの小銅鐸があります。出土する地域や使われた時代が銅鐸より広いこと、出土する場所の違いなどにより、銅鐸とは異なる製品として語られることが多いです。
ここでは、大きく小銅鐸と銅鐸に分けて話を進めます。
考古資料としての銅鐸
銅鐸は、他の考古資料(土器、石器)とは違った出土状況になっており、物としても、情報ソースとしても扱いの難しい遺物です。
考古学者の努力によって詳しく分析され、制作年代などかなり解明されていますが、次に述べるように不確定な要因があって、学者の間でも見解が分かれることがあります。

出土する場所

銅鐸は土器や木器などと違い、集落や人がかかわる遺構から見つかることはほとんどなく、土砂採掘や農道開発などの工事で偶然に、集落のはずれや丘陵の斜面から見つかることが多い遺物です。土器などと一緒に出土することはほとんどないので、土器年代から銅鐸の使われた時期を知ることも出来ず、時代判定がとても難しい資料です。
最近は集落などから出土するケースも出てきて、銅鐸が使われた時代が判るようになりました。
先に述べたように、集落から隔絶された所から出土することが多いので、まだ見つかっていない銅鐸が数多くあると推定されます。
1996年、島根県の加茂岩倉遺跡で39個もの銅鐸が山の中腹から見つかりました。これで、銅鐸分布の見方が大きく変わりました。銅鐸がないとされていた北九州で、銅鐸の鋳型や銅鐸が見つかると、青銅器文化圏の捉え方がごろりと変わりました。
今後、同じようなことが起きる可能性があり、銅鐸に関する見方も変わるかもしれません。

溶融して再利用された?

弥生時代、銅や錫などの金属はとても貴重な資源でした。
鋳造に失敗した銅鐸は青銅原料として再利用されたと思われるし、銅鐸のマツリが終わった時には、鏡などの他の製品に再利用されたことも考えられます。
現在見つかっている銅鐸だけで当時の全体像を推定するには難しさがあります。

発見する人

土砂採集や道路工事などで山の斜面や高所から偶然に見つかるケースが多いということは、第1発見者は工事業者や土砂採取業者などで、考古学者が埋まった生の状態で見つけることは希です。すなわち、銅鐸は既に掘り出され、埋まっていた状況は発見者からの伝聞になってしまいます。銅鐸自体が重要なのですが、埋まっていた状況、地層との関係や銅鐸の相互位置関係も大切な付随情報です。しかし、考古学者が駆け付けた時には、その情報が失われてしまった後です。
このような発見状況なので、銅鐸については分からないことが多く、考古学者の見解が分かれる原因となっています。
銅鐸の構造
後述する銅鐸の説明・解説では、銅鐸の構造に関わる用語が出てくるので、概略の構造を説明しておきます。
遺跡の年代
銅鐸の構造 [出典:「大岩山出土銅鐸」銅鐸博物館]

釣り鐘の釣り手に相当する平板状の部分を鈕(ちゅう)と呼びます。小型の銅鐸は、実際に鈕にヒモを通してぶら下げていたようです。
本体部分を身(み)と呼び釣り鐘のように中空になっています。身の下部、少し広がったような形の部分を裾(すそ)と呼びます。
正面から見て、本体の左右には鰭(ひれ)と呼ぶ平板な突起が付けられています。魚のヒレに似ているのでこのように命名されたのでしょう。
舌と内面突帯

舌と内面突帯 [イラスト 田口一宏]

本体の上体部分は釣り鐘とは違い平らになっており、舞(まい)と呼びます。
鰭には半円状のものが、2個がペアになって左右で6個くっついており、その形から飾耳(かざりみみ)と呼びます。鈕には双頭渦紋飾耳(そうとうかもん)と呼ばれる円形が2個くっついたものが3組付いている銅鐸があります。
銅鐸の身の内部には帯状に盛り上がった突帯(とったい)が付いています(無いものもある)。
銅鐸は内部に舌(ぜつ)という青銅の棒を吊り下げ、これを揺らすと内面の突帯に当たり音を発したようです。
身の上部、裾の最下部、舞の各部に四角い孔や丸い孔が本体を貫通して開いています。これは型持孔(かたもちあな)と呼ばれ、銅鐸を造るときに必要なものです。
銅鐸の型式と制作年代

型式分類

銅鐸自体については、形式学的に変遷が分かり易い遺物で、先人の努力により制作時期の相対的な順序がはっきりしています。 (形式学:モノの形の変化で時代を特定したり、性格の変化を考えたりするやりかた) 詳しくは後ろの章で説明しますが、以降の内容を理解するために、銅鐸の形式の変化と制作年代を解説します。  型式としては大きく4つに分けられます。同じ銅鐸でも使い方は2つに分けられ、時代や地域によって使い方に違いがあります。説明は、まず用途で大きく分け、次に形による分類をつけて話を進めます。 これを表にしたものを示します。
銅鐸の形式
銅鐸の形式 型式と呼び方、大きさ、時代の概要
形式の呼び方(通称と正式名)
菱環鈕式(りょうかんちゅうしき)
外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき) 正式名:外縁付菱環鈕式
扁平鈕式(へんぺいちゅうしき)       :内外縁付菱環鈕式
突線鈕式(とっせんちゅうしき)        :突線飾付扁平鈕式

 (注)銅鐸の名称は上の通称で呼ばれることが多いのですが、馴染みがない呼称なのと年代を知るために、
  T式〜W式とか最古段階、古段階、中段階、新段階と呼ばれることがあります。

銅鐸は用途が終わると一斉に「埋納」されると言われており、埋納時期を表の右端に記しています。
上の表の細部、埋納などに関しては、いろいろな見解がありますが、ここでは上記のようにしておきます。

聞く銅鐸と見る銅鐸

「聞く銅鐸」とは、音をならしてマツリを行うための銅鐸で、古い形式で比較的小型となっています。銅鐸を木の枝からぶら下げ、本体を揺らせて使ったようです。農耕祭祀で使ったと言われていますが、異論もあります。
「見る銅鐸」は、新しい形式の、大きな銅鐸です。ぶら下げて使うには大きく重く、見て崇めたのだろうと言われています。ただ、三遠式銅鐸(後述)では内面の突帯が変形している銅鐸もあることから、時々は鳴らしていたと考えられています。
聞く銅鐸のマツリ
聞く銅鐸のマツリ (想像図
見る銅鐸のマツリ
見る銅鐸のマツリ(想像図)
[イラスト:中井純子]
【大きさの違い】
見る銅鐸と聞く銅鐸の大きさの概念図を2種類示します。左図では大きさの変遷を視覚的に、右図では大きさの変遷と製作数の推移が判ります。
見る銅鐸と聞く銅鐸の、形式上の境界の線引きについては、上の表や下図ではW式(新段階)-1とW式-2の間に引いていますが、これもいろいろな説があります。
銅鐸祭器の変遷

銅鐸祭器の変遷
[出典:「共に一女子を立て」安土城考古博物館]
銅鐸祭器の変遷-2

銅鐸の大型化(田中琢氏)を改変

紋様による分類

銅鐸の本体には紋様を浮き上がらせているものがほとんどで、横帯紋、流水紋、袈裟襷(けさだすき)紋などに分類されます。
銅鐸の紋様が、日本画で水の流れを表現する「流水紋」に似ていたり、お坊さんが使う「袈裟」に似ているため、このような名前が付けられたのですが、これらは後世のことであり、弥生時代の人たちはどのように紋様のことを呼んでいたのでしょうか。
横帯紋は袈裟襷紋の縦方向の帯がなく、横方向の帯だけの紋様で古い銅鐸にしか見られません。流水紋は古い銅鐸から比較的新しい銅鐸にまで見られます。
銅鐸の紋様
銅鐸の紋様とその由来  

絵画銅鐸

絵画銅鐸
絵画銅鐸(桜が丘4号銅鐸)
[桜ヶ丘発掘調査報告(神戸市教委 橋詰清孝氏改変)]
絵をクリックすると拡大表示されます。
銅鐸の10%強に絵画が描かれています。
袈裟襷紋の四角い空白や裾の空白部分に農耕や狩りのようなシーンが描かれています。
神戸の桜ケ丘銅鐸が非常に有名で、絵の意味するところが何か、学者の間で議論されています。稲作や水田周辺に存在する昆虫や動物、米の収穫などに関する絵が主体で「稲作農耕の風景だろう」という説が有力ですが、違う説を唱える人もいます。
図は桜が丘4号銅鐸ですが、5号銅鐸にも同じような絵が描かれています。
この2つの銅鐸はほぼ全面に描かれていますが、1号銅鐸には
部分的に絵が描かれています。

近畿式銅鐸と三遠式銅鐸鐸

新段階の見る銅鐸には、近畿地方でよくみられる「近畿式銅鐸」と東海地方で多く見られる「三遠式銅鐸」の2種類があります。「三遠」とは旧国名で三河の国と遠州の国で発見されることが多いのでここから命名されました。
素人目にはほとんど同じですが、専門家が細かく見ると、紋様や形に違いがあるようです。見て直ぐに分かるのは、吊手(鈕)の部分にある「双頭渦紋飾耳」の有無です。
滋賀県の考古学者、細川修平さんがサザエさんの漫画を引き合いにして、「近畿式はサザエさんの頭」、「三遠式は波平さんの頭」と比喩して解説されたのが印象に残っています。
その他、いくつかの違いが指摘されていますが、ここでは省きます。
三遠式銅鐸と近畿式銅鐸様
三遠式銅鐸と近畿式銅鐸
祭祀具としての銅鐸

聞く銅鐸の祭祀

弥生時代中期には青銅器が祭祀の道具として、北九州から中部圏まで広く使われていました。
北九州から、西日本、近畿の一部は武器型青銅器が使われ、西日本の一部、近畿、東海では銅鐸が祭器として使われていました。図にはありませんが、北九州でも銅鐸が少々見つかっています。
これらの銅鐸は「聞く銅鐸」です。
図は簡単にまとめましたが、武器型青銅器にも銅鐸にも多くのバリエーションがありました。
弥生時代中期の青銅器祭祀
弥生時代中期の青銅器祭祀 [寺沢薫「王権誕生」に基づき作成]

見る銅鐸の祭祀

弥生時代中期末に大きな社会変化が生じ、弥生時代後期の祭祀のやり方、祭祀具は大きく変わります。
青銅器祭祀を止めて他の器物や墓で首長の威儀を示すところが現れます。武器型青銅器は広幅銅矛に統一され地域も狭くなります。
銅鐸祭祀の範囲は近畿・東海周辺に限定されます。銅鐸は「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へと使い方が変わり、多くの種類から少しの種類へと統合され、さらに後期末頃には近畿式銅鐸に統一されます。
この銅鐸統合の様子から、倭国の統一の過程が読み解けるのです。
弥生時代後期の祭祀
弥生時代後期の祭祀 [寺沢薫「王権誕生」に基づき作成]

銅鐸の埋納と破壊

埋納時期と方法

銅鐸は埋められた状態で見つかり、銅鐸の形式から作られた時代が大体わかるのですが、使われた期間はなかなか分かりません。銅鐸が単体で見つかったり、同じ形式のものばかりが出土する場合、いつ埋められたのか判断に苦しみます。
一カ所に、古い銅鐸と新しい銅鐸が混じって埋められていているケースでは、作られた時期は異なるものが同じ時代に使用されていて、何らかの理由で、新しい銅鐸と一緒に埋められたと分かります。
希に土器と一緒に出土したり、他の青銅器と共に埋納されている場合、使われた時期が推定できます。
埋納についてのこれまでの考え方は、広い地域で、大まかには2回にわたって埋納されたという、2段階埋納説が有力です。第1段階は、弥生時代中期末に当たる1世紀初めごろ、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に代わるころに埋納され、第2段階は、弥生時代後期末、銅鐸祭祀が終わるときです。
ただ、学者の間で埋納時期や回数について意見が分かれているのも事実です。
制作時期の異なる銅鐸が一括して埋納されるケースもあり、ある時期に一斉に埋納された様子が見て取れます。一つの集落で多くの銅鐸を使っていたとは考えにくく、型式も異なることから、複数の集落から銅鐸を運び込んで一斉に埋納したと考えらえます。
銅鐸のカーブの出し方
銅鐸の埋納風景(想像図) [イラスト: 中井純子] 

2015年淡路島で見つかった7個の「松帆銅鐸」は、古い形の銅鐸ばかりで、埋納第1段階より古い時期になる紀元前に埋納された、と考えられています。
銅鐸の埋納姿勢
銅鐸の埋納姿勢
[イラスト: 田口一宏]
【埋納された銅鐸の姿勢】
埋納の仕方ですが、銅鐸が使用された数100年の使用範囲にわたって、埋納の仕方が統一されているのです。銅鐸を横向きにし、鰭を上にして埋納するやり方です。多くの場所でこのやり方で埋められており、埋納の仕方にはルールというか強い強制力があったようです。
ただ数件の例外があり、古い銅鐸では、鈕を上にした正立での埋納や逆さにした倒立での埋納も見られるので、古い時代には、埋納の仕方も割と自由だったのかも知れません。
鰭を水平にした姿勢での埋納がもっと多いという学者もいます。

銅鐸の破壊

銅鐸が丁寧に埋納されている地域がある反面、粉々に割ったり飾耳を切り取ったりして埋めてあるケースも見られます。地域によって差があるようです。
切り取られた飾耳(近畿式銅鐸のシンボル)の意味合いについては、ペンダントとして使ったとか、大切な銅鐸を埋納するに偲びず一部を隠し持っていた、などいくつかの説があります。
青銅は武器に使われるものですから、強度があり粘り強さもあって、銅鐸は強い力で叩いても割れないものなのです。ただ、高温に加熱して叩くと割れやすくなります。
銅鐸の祭祀が終焉するとき、地域によってはわざわざ加熱して破壊したようです。

mae top tugi