ヘッダー画像
 大岩山銅鐸はミステリーだらけ
大岩山銅鐸に限らず、銅鐸自体がミステリーの多い遺物です。その中でも大岩山銅鐸は不思議なことの多い銅鐸です。
ここでは、大岩山銅鐸のミステリーと銅鐸全般のミステリーについて意見を述べてみます。
記載している項目
大岩山の銅鐸は不思議なことが多くミスタリーだらけです。
話を進めるにあたり、大岩山の銅鐸の不思議さについて整理しておきます。
1.近畿式と三遠式の銅鐸が一緒に埋納されている。
複数銅鐸が同時埋納される場合、近畿式銅鐸は近畿式ばかりが一緒に埋納されるか、三遠式も同様、三遠式銅鐸ばかりが埋納されているのが普通である。しかし、大岩山では2つの形式の銅鐸が一緒に埋納されており、他では見られぬ状況(例外は1例)である。
なぜ、近江だけが混在して埋納されているのか?
2.近畿式と三遠式の紋様が混在した銅鐸の存在
素人目には分かり難いが、専門家が見ると、近畿式銅鐸に三遠式の紋様が取り入れられ、三遠式銅鐸に近畿式の紋様が取り入れられたものがある。
意図して製作されており、その理由は?
3.双頭渦紋飾耳のない銅鐸は何を意味する?
近畿式銅鐸の特徴は鈕についている大きな飾耳で、素人目にも良く判る。
この飾耳が切り取られている近畿式銅鐸が複数個存在する。切り取った跡がきれいに磨かれていることから、使用中に飾耳を切り取ったと考えざるを得ない。
なぜか?
4.聞く銅鐸と見る銅鐸が一緒に埋納されている。
2項と同じく、他所では聞く銅鐸同士、見る銅鐸同士が埋納されており、一緒に埋納されて いるのは大岩山だけ。
どうして大岩山だけが?
5.大岩山で銅鐸の埋納を3回に分けて行ったのはなぜか?
明治出土の銅鐸と昭和出土の銅鐸(流水紋を除く9個)の埋納はどちらも弥生時代後期末だが、埋納地が数10m離れている。
また、流水紋銅鐸だけが数10m離れて単独で埋納されている。3回に分けて埋納したように思える。
なぜ3回に分けて埋納したのだろう?
6.W式新段階(突線鈕)銅鐸の古いものが多く、新しいものが少ないのはなぜ?
他に地域に比べ、古い型式(W式-1〜3)のものが多い。でも新しいW式-4が一つもない。
ところが、最新のW式-5の最大で最新の銅鐸でかつ銅鐸最後となるものが含まれるのはなぜ だろう?
7.大型祭殿が立ち並ぶ伊勢遺跡とはどんな関わり?
弥生後期、近畿では巨大集落が衰退し大型建物群は伊勢遺跡と下鈎遺跡しかなかった。
伊勢遺跡から直線距離で5kmと距離的に近い大岩山に多量の銅鐸が埋められた。当然、何ら かの関係があると考えられる。
ホームページ「大岩山と近江の銅鐸」にも伊勢遺跡との関連を書いたが、細かく見ていくと不思議な関連性がまだ存在する。
8.下長遺跡の飾耳は何を意味するのか?
伊勢遺跡が廃絶された後に最盛期を迎える下長遺跡から、切り取られた畿式銅鐸の飾耳が 見つかっている。
銅鐸が破壊された象徴なのだろうか? これまで大切にしていた銅鐸の一部を密かに隠し 持っていたのだろうか?
9.近江で第1回目の銅鐸埋納はあったのか?
大岩山で第2回目の一斉銅鐸埋納があったが、近江で、弥生中期末の第1回目の銅鐸埋納はあったのだろうか?

このようなミステリーを直接に説明できる考古資料はないものの、状況証拠から考えてみようと思います。

詳細は「野洲川下流域の弥生遺跡」ホームページの「意見の広場」に書いています。

こちらからご覧ください  ⇒  大岩山銅鐸はミステリーだらけ