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下鈎遺跡
伊勢遺跡の南西、約1.2kmの所に下鈎遺跡があります。弥生時代中期に環濠集落が形成されますが、後期の初めには解体し、周辺へ分散します。後期後半には再び大型建物を築造し、祭祀と青銅器生産、水運管理を行う集落として出現します。
伊勢遺跡と共に野洲川下流域の「クニ」の中核を占める集落となっていたようです。
弥生後期の下鈎遺跡
下鈎遺跡の祭祀域
弥生後期の下鈎遺跡の祭祀域
(下鈎遺跡発掘調査報告書より作成)
伊勢遺跡に少し遅れて、中期環濠集落の北西に大型建物4棟を擁する集落が現れます。
祭祀域は南北の2ヶ所に分かれています。北の祭祀域と南の祭祀域は若干様相が異なっています。
北の祭祀域には、大型の独立棟持柱建物と中型の独立棟持柱建物が見つかっています。 周辺の溝からは遺物がほとんど見つかりません、伊勢遺跡に似た雰囲気です。
南の祭祀域には、大型の独立棟持柱建物が2棟と大型の壁立建物1棟が見つかっています。 周辺には小型の掘立柱建物が数棟建っていますが、住宅用の竪穴住居は見つかっていません。 周辺に居住用竪穴建物がないのは北の祭祀域や伊勢遺跡とよく似ていますが、異なるのは、大型建物の周辺の河川跡からは、青銅製品、銅残滓(どうざんさ)、日本各地から集まってきた土器がたくさん見つかっています。
大型建物
下鈎遺跡では、大型建物が4棟出ていますが、建物跡が完全に残っているのは、独立棟持柱付き建物が2棟です。あとの建物は一部が発掘範囲外であったり、後世の河で破壊されたりしており、全貌は判りません。
独立棟持柱建物の1棟は、床面積48uで伊勢遺跡の祭殿とほぼ同じ構造ですが、柱の立て方が布掘り式という伊勢とは違うやり方となっています。柱穴断面が斜めになっているのは伊勢遺跡と同じです。
下鈎遺跡の祭殿1
下鈎遺跡の祭殿1
下鈎遺跡の祭殿2
下鈎遺跡の祭殿2
[イラスト:栗東市教育委員会]
もう1棟は、梁行2間、桁行4間、床面積40uで、柱穴の配置から、吹き抜け構造のテラス付きの建物と推定されます。 伊勢遺跡でもテラス付きと推定される祭殿が見つかっており、テラスで特殊な祭祀を行ったのではないかと考えられます。 この点でも両遺跡の類似点が認められます。
青銅器生産
下鈎遺跡は青銅器の保有量が多いことも特徴で、銅鏃(どうぞく)、銅釧(どうくしろ)、銅鏡などが数多く出土しています。
銅製品ばかりではなく、銅鏃の未製品が出土しており、銅の残滓、湯玉状銅塊も出ていて、集落内に青銅器の生産工房があった可能性が高いとみています。土製の鋳型外枠が見つかっており、その形状から大型品の鋳造を行っていたことも確実視されています。
ただ、大岩山で見つかった銅鐸の製造をここでやっていたかどうかの判断はできませんが、下鈎遺跡も含めて野洲川下流域のどこかに大規模な銅鐸製造工房があったのでは、と考える複数の研究者がいます。
銅鏃と銅釧
銅鏃と銅釧
鋳型と銅残滓
鋳型と銅残滓
小銅鐸
下鈎遺跡の小銅鐸
[写真 栗東市教育委員会] [写真 滋賀県教育委員会]

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